平均律クラヴィーア曲集 聴き比べ 第四弾は第一巻 第5番 ニ長調をグルダ、フィッシャー、グールド、リヒテルで聴き比べました。
平均律クラヴィーア曲集について 引用元:リヒテル 解説書
第5番 ニ長調 BWV850 前奏曲(4/4拍子) 16分音符だけによる音型が右手で無窮動風に奏でられていくが、最後には一転して幻想曲風の終結をみせる。 フーガ(4/4拍子、4声) あたかもヘンデルを想起させるかのような曲趣をもった主題が、主題と応答が呈示された後、自由な発展を続けていく。荘重な演奏効果と、対位法的というよりはむしろ和声的な性格の著しい処理をその特色としたフーガである。 |
フリードリヒ・グルダ wikipediaより
フリードリヒ・グルダ(Friedrich Gulda, 1930年5月16日 - 2000年1月27日)は、オーストリアのピアニスト・作曲家。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの演奏を特に得意とした。ジャズ演奏でも知られる。20世紀を代表する巨匠ピアニストの一人である。1960年代はイェルク・デームス、パウル・バドゥラ=スコダとともにウィーンの三羽烏と呼ばれた。最初の妻との子パウル、2人目の妻・祐子(ジャズピアニスト/日本人)との三男リコはともにピアニスト。日本に対しては妻が日本人だったこともあり、親近感を抱いていたことでも知られる。来日歴は1967年、1969年、1993年の3度。 1930年、ウィーンに生まれる。 1942年、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学し、ブルーノ・ザイドルホーファーに師事。 1946年、ジュネーブ国際音楽コンクールで一等賞を受賞。 1947年、初のレコーディング。バッハ、ベートーヴェン、ショパン、プロコフィエフなどを録音。 1955年頃、マルタ・アルゲリッチを指導。 1967年 - 1968年、3回目となるベートーヴェン『ピアノソナタ全集』録音。 |
グレン・グールド wikipediaより
グレン・ハーバート・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家、身長180.5cm。 生涯 デビューまで 1932年9月25日、トロントに生まれる。旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。母はノルウェーの作曲家グリーグの親類である。 母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロント王立音楽院に合格。同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルヴェスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレロよりピアノを習う。1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。1945年にオルガン奏者としてデビュー。同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。 |
スヴャトスラフ・リヒテル wikipediaより
スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(ロシア語: Святосла́в Теофи́лович Ри́хтер、ウクライナ語: Святослав Теофілович Ріхтер、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)は、ソビエト連邦のピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。 生涯 1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでドイツ人ピアニストの父と素封家の母親のもとに生まれた。幼いころに一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが、音楽家にしようという気はなかった。父親はその後別れて行動し、後にオデッサで処刑され、母親は別の男性と再婚した。 リヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用され、多くのオペラ曲の初見を経験した。 |