訃報 ともさんが旅立たれました
2016/6/12未明、私の大好きなtomomasaさんが旅立たれました。
「ともさん(友さん)」という愛称で、みんなから親しまれてきました。
享年92歳の生涯でした。
友さんは長いこと畜産のお仕事をしてきましたが、一方ずぅっとお百姓さんでした。
昭和20年の敗戦以降70年間毎日農作業日記を綴っておられました。
几帳面ですね。
友さんは大正13年3月16日に町田の小野路で生まれました。
私の実父は大正12年8月31日に東京の下町で生まれました。
あの関東大震災の前日です。
実父の生まれた約半年後に友さんは生まれているので私は友さんにとても親近感を覚えてました。
「親孝行したいときには親はなし」といいます。
が、実父は平成2年(1990年)2月9日に享年66歳で旅立ってしまいましたので、私は実父にできなかった分の親孝行をせめてもの代わりに友さんに対して精一杯してきました。(友さんには娘さんがお一人おられますが、息子さんはいません。)
畑までの往復のアッシー君を依頼するとき友さんは恐縮されるので「気にしないで、自分の息子だと思って顎で使いまわしてくださいよ」と答えていました。
友さんは畑を3か所ほど営んでいましたが、そのうちの一か所は、結構急な坂道を尾根まで登り切ったそのちょっと先にあり、この畑まで自力の徒歩で往復するにはご高齢の友さんの足腰にとってはかなりしんどい通勤です。
私は率先してアッシー君を22年間で70~90回位しました。
アッシー君以外にも、甘いものが大好きな友さんに私の郷里平塚の都まんじゅうを差し入れすることも長いことし続けました。
律儀な友さんは饅頭の礼に後日決まって取れたての畑の農産物を届けてくれました。
特に冬場の長ネギの掘りたては最高にうまかったです。
私の実母はサトイモが大好きなので、まとめと買わせてもらうと「おふくろさんにたんと食べさせてやんなよ」と相当な量をおまけしてくれました。
友さんは最後に入院した3日前まで畑仕事をしていました。
つまりは入院の3日前まで軽トラックの運転もしていました。
亡くなられたのは入院して数日後でした。
友さんは太平洋戦争当時陸軍の戦車の操縦士として戦地に赴きました。
戦車の操縦ハンドルは平和な時代に入ってブルトーザー、耕運機などのハンドルへと持ち替えてこれを駆使して畑を営んできました。
友さんは鉄が趣味というか、自分で耕運機などのアタッチメントを独自のアイデアで設計制作し、使い勝手が芳しくないと改良を加えて不断に創意工夫を惜しまぬ人でした。
友さんのご親戚筋の大家さんと私は知り合いであったことが御縁で、大家さんの敷地内(かつての牛小屋の納屋)にスペースをお借りして工房ばぶを始めたのが平成5年の夏。
引っ越してきたとき友さんはご自身手作りの野菜の自動販売機の制作に没頭していました。
その仕事ぶりが物珍しくて友さんに「今何をしているところですか?」と声をかけると
「この販売機に銭を入れたときに『チャリ~ンといういい音』が出せねえか試作しているのだ…」と、いろいろなベルやら鐘やらを差し替えて響き加減の研究をしていました。
わっ、このおじさん、すっげぇ人だ…というのが私の第一印象でした。
その後自動販売機は四半世紀近くの月日を稼働し続けましたが、近年少しく塩梅が悪くなり3,4か月前からリニューアル製作に取り掛かっていました。
91歳を過ぎての新たな挑戦です。
一朝一夕に真似のできるような行動ではありません。
なんという精神力の強さでしょう。
自動販売機の扉の内側には「アメニモマケズ、カゼニモマケズ…」という宮沢賢治の詩の一篇が書き込まれていました。
ご自身の精神を鼓舞しているお気に入りの詩だったのでしょうか。
友さんは新型野菜自動販売機を完成させられぬままに旅立たれましたが、生涯自分の好きなことを全うしたその生きる姿勢たるやなんという素晴らしい人生だったことでしょう。
私も友さんのような人生を全うしたい。友さんの志、魂を我が魂に刻みます。
よきお手本を沢山示してくれて心からありがとう友さん。
さよなら 友さん やすらかに。
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