期待してそのときを待つ楽しみ・・・ 這えば立て立てば歩めの親心
『這えば立て立てば歩めの親心』という言葉があります、 『這えば立て立てば歩めの親心、わが身に積もる老いを忘れて』とつながる場合もあるようです。
子供の育ちに仕事として関わってきて私は、「その親心とは『遊びの精神』なのだ」と解釈して保育しています。 さっきまで這っていたあかちゃんが、生まれて初めて「立った」たっちした、数日後その赤ちゃんが、生まれて初めて歩いた。一歩、そしてまた一歩、さらにまた一歩。わくわくしますね。 こんな瞬間に出合えた時は誰でも大きな感動を覚えます。とっても嬉しいです。思わず歓声を上げ、拍手します。 複数担任であれば同僚の相棒に喜びの報告をせずにいられません。 周囲に伝播すると一人の喜びは2倍3倍になっていきます。
1歳児と2歳児の混合クラスの一時保育室ですから発達の段階にもいろいろなお子さんがいます。既に一人でトイレを済ませられる子もいれば、今まさに自律のさなかにいる子、おしゃべりは匠でもおしっこには全く関心がないような子、実に様々です。 定時に一斉におむつ交換をするというような保育のやり方はしていませんが、子ども同士はそれを見るともなく何となく見ているようです。
『這えば立て、立てば歩めの親心』はトイレ排泄の時も同じです。 おむつがおしっこでパンパンになっていても機械的に交換するのではなくて「おしっこいく?」「トイレ座ってみる?」と声掛けをして反応の様子を見ます。 「やだ」「でない」「いかない」などのことばがかえってきたときには「そう、わかったよ」と答えます。
一方、「おしっこ」、「トイレする」などと意欲的に自己申告をする子どもさんの中には、便器に座ってもおっしっこをするような気配はなく、ひとしきりの儀式や遊びのくつろぎタイムにしたり、中には水道局の職員が水道栓の点検に来ているかのごとくに楽しんでいる(?)といったケースもあります。カラカラカラっとトイレットペーパーを瞬く間に1・2メートルひき出す見事な芸達者のマジシャンもいます。 この子どうせ口先ばかりで遊んでくるんだからという予測の濃いお子さんがトイレに座るときでも「おしっこ出たらいいなぁ」という期待を毎回持ちつつ、時には「おしっこでろでろ」と念力を送りながら成り行きを見守ります。育ちつつある姿に対してのエールであり、遊びの精神でもあるのです。
今日トイレで初めておしっこが出たお子さんがいました。 それも登園してから帰るまでの間になんと3回も大成功です。 前回まではトイレを促しても「でない」「やだ」と意思表示し、あるいはまったく関心も示さなかったお子さんです。 1回目の成功のときは交換するおむつがすでにだいぶもっこりしていましたので、トイレに座っても十中八九でないだろうなぁというような状態でした。それでも「といれすわってみる?」と誘います。 このときは珍しく「すわる」との返事です。 もしかしたら…でるかなぁ、と期待半分でちょっと待ってみました。 気配は見られないので目を離して他の子のおむつ交換の段取りにとりかかっていました。 ふた呼吸くらい間があいて、ちょろちょろっとかわいらしい音がします。 「えっ、まさか、本当???」思わず聞き耳を立てます。 その場からちょっと離れた所で保育をしている相棒に報告です。 「○ちゃん、トイレに座っておしっこ出たよ!」のビックニュースに相棒も喜びいさんで駆けつけてくれます。 2回目のときは相棒が誘って成功。しかもその時はおしっこのあとにうんちまでトイレに座って出ました。 その次のときはフライングでした。 「でなかったね、こんつぎまたすわろっか」と切り上げほかの遊びに誘います。 3回目はしばらくたったころ、また誘いますと、今回はおむつが全くぬれていません。 うながしてみますと、一呼吸おいて、出ました。それもたっぷり目に出ました。出しました。 たまたま出たとか、出ちゃったとかでなく『意識して絞り出す』という感じでした。 相棒と、今日の快挙の喜びに浸りつつ、こんな瞬間に親御さんより先に立ち会えてすまないなっと 頷き合いました。
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