二人の母
文章を綴るのは苦しみでもあるが、楽しみでもある。もともと発達障害の傾向があって作文は苦手なはずなのだが、知らず知らずのうちに克服したのだと思う。それは2人の母のおかげだと言ってよいと思う。 1人はもちろんぼく自身の母である。小学校に入学して文字が書けるようになると、母は文房具店で原稿用紙を購入した。それを2つ折りにして綴じて日記帳を作るのだ。母は、「これに今日あったことを書きなさい。絵を描いてもいいよ。」というのである。それが1週間分たまると、学校の先生に渡すように言われた。先生は赤ペンでコメントを書いて返してくれる。今思えば、先生もさぞ迷惑なことだったろう。だが、これは担任が変わった翌年にも引き継がれ、おおむね2年間続いたようだ。 それにもかかわらず、ぼくは男の子にありがちな、作文の苦手な(と思い込んだ)フツーの男の子になっていった。特に5・6年の時の担任とは相性が悪く、ぼくは勉強に劣等感を抱えたまま成長していった。 余談だが、ぼくがなんとか自尊心を失わずに行きていけたのは、やはり母の勧めで通った絵画教室と少年合唱団のおかげである。勉強以外でも自信のもてることがあれば、なんとかつぶれずにすむのだ。 高校生のころ、詩なども書くようにはなったし、一人の国語の教員に勧められて高誌に雑文を載せたりもしたが、苦手感を克服することはできなかった。(それで国語の教員になったのかよなどと言うなかれ。名監督必ずしも名選手ならずである。)
さて、教員になって初めて担任を持ったとき、ある生徒の母親から「学級通信をだしてください」と言われた。「学級通信??」 当時の横浜の公立学校は、非常に保守的、かつ管理的であった。やれ生徒を家に来させるなだの、無断で休日に生徒と出かけるなだの、要するに、生徒と教員が個人的に接触することを極端に警戒していた。(ぼくの下宿は子どもたちのたまり場になりかかっていたから、ひやひややものである。)ある教員は、学校の様子や教室での子どもの姿をガリ版で印刷して配っていたが、周囲からは「あの先生はアカだから」と陰口されていた。そのガリ版刷りが学級通信というものらしい。(因みに、当時、横浜の公立学校の教員はほぼ百%日教組系の組合員だった。そして日教組は「革新」政党の社会党を支持していた。しかし、組合を支える教員の多くは現場の管理主義と保守主義にこりかたまっていた。 ぼくはというと、作文の苦手意識もあり、字もへたくそだし、めんどくさいし、睨まれたくもないということで、この母親の申し出をのらくらと先延ばししていたのだった。 実は彼女はもともと、東京で中学校の教員だったらしい。再婚で血の繋がらない息子とはなかなか気持ちが通じないことを悩んでいた。それもあって、学校の様子を知りたいという気持ちが強かったのだと思う。しかも彼女にとっては、熱心な教員なら学級通信は当然だと思っていたのだろう。 彼女はPTAのクラス委員を引き受けていて、学校に来る機会も多かった。ある日「ボールペンで書けるガリ版用紙があるそうですけど、PTAで使うのでいただけますか」と言う。それで渡したら、数日後「これ、見ていただいて、よければ印刷してクラスで配ってください」と言うのだ。見ると、それは学級通信の原稿だった。そういえば、最近のクラスの様子はどうですかなんてインタビューしていたっけ。てっきりPTAの通信に載せる記事かと思ったのだけれど。タイトルは学級通信となっていて、しかも発行者「浜田謙一」となっている。 それで、言われたとおり印刷して配ると、その後も何度か原稿が届けられた。個人面談やら学級懇談会などで「先生、学級通信、ありがとうございます。素晴らしいです。」なんて言われるとドギマギしてしまう。懇談会では司会を頼んだそのお母さんが知らん顔で微笑んでいる。 きっと彼女は、ぼくの未熟ぶりや熱情のなさにあきれ、なんとか教員として育てなければと思ったのだろう。しかし翌年のクラス替えで、ゴーストライターによる秘密の学級通信は途絶えてしまった。 後に、学級通信をタブー視する傾向は薄れ、むしろ奨励さえされるようになったころには、週に2~3部の頻度で通信を発行するようになった。 文章を書くことの苦手感は、ワープロの出現で消えていった。早く打てるわけではないが、考えながら打つには遅くても困ることはないし、消しゴムもいらず、思いついたことを書いておけば、後で入れ替えもできるというわけだ。 トラブルもある。部活について、休日くらい一家だんらんでのんびりしたいのにとか、 指導が加熱しすぎていないかなどという親の声を紹介したら、管理職からクレームをつけられたのだ。「あなたの意見を親に言わせている」とさえ言われ、それはその親に失礼だ、謝罪してほしいなどという言い合いになったっけ。 教室で出会う発達障害の子の多くは、文章を書くことが苦手だ。とくにADHD(注意欠陥多動障害)の子の多くは、物知りで授業でもよくしゃべる。あれだけしゃべるのだからそのまま書けばすばらしい作文が書けるはずなのに、1字も書けないなんていうことはしばしば。どうやら、脳の知識を蓄える場所や言葉で表現する場所が、文字を綴ることを司令する場所にうまくつながっていないようなのだ。 ぼくもADHDに近いと思うのだが(字がへた、不器用などは典型的な特徴である。)、母が早くに日記を書かせたおかげで、回路が細々とつながっていたのだろう。それでもワープロに出会うまでは作文が苦手だった。書けるのだが、何度も書き直しをしているうちに集中力が切れてしまうのだ。
というわけで、ぼくが作文をそこそこ好きになれたのは、2人の母親のおかげなのだ。それとワープロ(パソコンも)のおかげでもある。そしてこれは、作文がにがてな発達障害の子にとってのヒントになるのではないだろうか?
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