2016年度汎美術協会研修用の一部を2017汎美展G・トーク用に改訂
「独り善がり」2015汎美・秋季展での「来場者と語る」と言う企画において
鑑賞者A 「私にはよく分かりませんが、他人に分かり易くて感動を与えるものでないと…」
私 「分かるとか理解できるからと言うことでなしに、何か分からないけど、何となく感覚される世界のことですよね」
鑑賞者A 「私、絵を習っているのですが、展覧会で鑑賞者が自作の前を一瞥も無しに通過されちゃうのって厭なものですね、無視されるって…」
私 「でも、そのような人たちには感受されなくても仕方ないでしょう。彼らに相手にされるように迎合したり、阿(おもね)ることはやるべきではありません。
自己に徹底することです」
鑑賞者A 「でもそれは単なる独り善がりでなんにもならないでしょ…寂しいことです」
私 「社会生活では別ですが、芸術表現の世界なら、独り善がりしかないでしょう。それが創作者の孤独というもので、その世界を極める事が重要なのでは…。曲学阿世と言う言葉がありますが、一般大衆に阿(おもね)たら自己の表現の世界は終わっちやいます。大衆を信用してはいけません、自己を信じるのです。それが信念というものでしょう。自己表現というものは常に孤独に耐えること、そして
持続することでしょうね。勿論啓蒙や働きかける、こちらを向かせる事は必要でしょうが…子供に好きなものだけしか食べさせている訳ではありませんから。…で、先世紀オーストリアの詩人・リルケは創作者の孤独について
“他人(ひと)の裡(うち)にある孤独を観ることによって私の孤独は癒やされるのでず”
との名言を述べています。しかしもしあなたの作品が一般大衆に夢や歓びを与え、彼らに「受ける」ことで多くの人々の共感を得、しかもあなた自身に歓びや満足が得られるなら、それも自己実現の一つであり立派なことで結構でしょう、それはそれで私も否定するものではありません。でも、この辺りがアバンギャルド芸術と凡庸・通俗あるいは広く捉えて芸術と芸能とを分かつところかも知れませんね」
鑑賞者A 「???…」
…というわけで、
□ 絵画は(芸術作品は)説明書でもなく仕様書でもありません、
自己実現(自我実現)です。
□ モデル諸物を説明や図解するのでなく、表現のための
モチーフにするのです。
□ 従ってモデル諸物の「日常的な意味」を超えてその
向こう側へ赴くことです。
□ 論理的に理解するのでなく、
感覚的に感受するのです。
□ 私の作品は、なるべく近くで鑑賞していただきたいので、今回は「具体的な生きものを二つ」隠してあります。この仕掛けは「猫」と「鳩」ですが接近しないと発見できません。鳩は何を唖えているでしょうか。
□ この絵には「猫」と「鳩」以外はすべて具体的なモノはありません。何故なら意味性にとらわれないように具体的なモノは全て払拭しているからです。
さて、皆様はどのように感じ、どのようにお考えでしょうか。
2017 汎美展・愚聴風