子どもが言い争っていた。一人は「牛には角がある」と言い張り、もう一人は「牛に角なんかない」と主張している。
「それじゃあ」と一人が言った。「ぼくんちに来いよ。ぼくんち、酪農やってるから牛がたくさんいるぞ。」
そこで二人は、その酪農家の家に行って確かめた。すると確かに、牛には角が◯◯。
問:◯◯に入る言葉を補え
正答:「なかった」
解説:もともと牛には角があるが、酪農家にとっては危険でもある。そこで、仔牛のうちに角の芽にあたる部分を切除して角が生えなくさせることが多い。そのため、この酪農家の子どもが見慣れている牛には角がないのだ。
牛に角があるという常識は、日ごろ牛に接している酪農家にとっては非常識だったというオチなのだが、こんな小話を思いついたのは「角をためて牛を殺す」ということわざを思い出したからだ。「ためる」は「矯める」、つまり曲がったものをまっすぐにすることだそうだ。しかし今では牛や山羊や羊などの家畜は「矯める」どころか、角を無くしてしまうのだ。
ところで、なぜ「角をためて……」なのかというと、こんなことがあったのだ。
散歩コースの松林の林床で、イチリンソウの仲間である「キクザキイチゲ」が咲く場所がいくつかある。他の場所の花は白いのだが、一か所だけ濃い紫の花が咲く。イチリンソウはキンポウゲ科アネモネ属で、この紫の花は、なるほどアネモネの親戚だとわかる。イチリンソウはスプリングエフェメラルと呼ばれる早春の花の代表格で、花の季節が終わるとそそくさと地上から姿を消してしまう。
この紫の花の群落は、遊歩道のすぐわきにあり、花がなくなるとその場所もさだかではなくなってしまう。それを心配したのか、数年前からこの場所を落ちている木の枝で覆ったり、花壇のように落ち枝で囲んだりする人が現れた。いや、姿を見ていないので現れたというのはどうかな?その枝が遊歩道にはみ出したりするので、事情を知らない人が取り除いてしまう。すると翌日にはまた保護設備が再建されている。花が咲くと、ホームセンターにありそうなミニフェンスで花を囲んだり、リボンを立てたり……。これではせっかくの野の花を独り占めされ、汚されてしまったようないやな気分になった。
去年、春になってもこの場所のイチリンソウだけ花を咲かせなかった。葉だけがわずかに出てきたけれど、株の数そのものが少なくなり、初夏のころには葉も消えてしまった。過保護な謎の人物もさすがに落胆したのだろう。その後、保護することをやめてしまった。
想像するに、この謎の保護者は、イチリンソウにこっそり肥料を施していたのではなかろうか。人に例えるなら、粗食に耐え厳しい自然の中を生き抜いてきた野生児に豪華なごちそうをふるまったあげく、病気にしてしまったようなものだ。「角を矯めて牛を殺す」ってこういうこと?と思った。
先日、そのイチリンソウが2株だけ花を咲かせた。
まだ回復にはほど遠いが、うまくすれば回復するかもしれない。ここを通る人の中にはそう思う人がぼく以外にもいるはずだ。他ならぬここにこの群落があるということは、この場所こそこの花に適した環境なのだから。
今朝ここを通ったら、花が終わった株の上に、再び木の枝が被せられ、周囲を木の枝で囲んであった。狭い遊歩道がこの場所でさらに狭まってしまっている。悪意はないのだろうけれど、他の人がどれだけ迷惑に思っているか、まったくわかっていないらしい。
先日「利己的自然保護」という言葉を目にした。「自然保護」の名のもとに、好きなものだけ保護しようとすることだ。たとえば復活プロジェクトで数を増やしているコウノトリは、地元の農家にとっては食害する害鳥でもあるのだが、そんな地元感情も考えずに、餌にするためにアメリカザリガニやブラックバスなどの特定外来生物を放す人までいるのだそうだ。コウノトリの食害を我慢している地元の人も、これでは忍耐の限度を超えてしまうだろう。
鳥海山がジオパークに指定されたので、地元の酒田市や遊佐町はお祭りムードだ。これで観光客が増えると自治体がキャンペーンしたのだ。しかしそれでは保護にならない。これもまた保護に乗っかる「利己的」な思惑だろう。