『美を見て死ね』
堀越 千秋 エイアンドエフ 2017.12.10.
『週刊朝日』連載(2014年~16年)
珠玉の名品を独持の視点で語る 最後の痛快アート・エッセイ! ご承知の通り、不誠実と嘘と金の世の中である。では、諸賢はその中で何をしているのかというと、他ならぬ金勘定と小さな出世の工夫にすぎまい。
こんな社会はダメだダメだと愚痴る対極の理想に、ではいったい何を置くべきなのか?
クイズは時間の無駄だから答えを言う。それは美である。美は一目見れば分かる。美人は一目見れば分かるのと同じだ。しかし、一口に美人といってもまたその趣味の善し悪しがある。美も同様だ。
小林秀雄は「美は訓練だ」と言った。お子様は甘い物が好き。渋味や苦味を味わえるようになるには、経験が要る。美も同じ。
大数学者・林武 1896-1975 高校の陸上部だった僕は、この絵の前でかつてない感動に襲われた。胸はドキドキし、血は逆流し、涙が出てきた。30号大のキャンバスの枠内に、まぎれもなく富士山の巨大な山塊が存在しているのだ。黒い山肌を引っ掻いたような傷跡の一本ずつが、山の実在を語り、下方の白と黄土色が、腸をかき回してくるようだった。いたたまれず展示場の外に出て、荒々しく息をして、何度も絵の前に舞い戻る度に打ちのめされた。エカキになるしかない! と決心した。
無駄なものは一切ない。絵の前に立つと、山の実在、だけがある。荒々しいタッチの全てが緊密な方程式となって、水ももらさぬようにこちらの胸に迫ってくる。こんな絵、他にない。
林武は誤解されやすい。バラの花やら舞妓やら富士やらの「ブルジョワ的」な画題と金ピカの壮大な額縁を若い画家達は笑った。僕は言われるまでそれに気がつかなかった。林武の絵には、もっぱら存在の方程式だけが示されていたからだ。大胆で、正確なのである。大数学者である。
後の著書『美に生きる』を読むと富士の麓にクサビを打ち込む、と書いてあった。そうか!
と僕には氷解するものがあった。まさに相対性理論だ。余人には説明出来ないが、絵は簡単だ。
この富士には人事を超えた存在の本質が語られている。惜しむらくは数十年後に見たら。
“油引け”がしていた。ゴッホの厚塗りは速乾性ニスによって支えられているが、裕福な林武は、英国製の絵具をチューブからふんだんに絞り出してニス無しで用いたために、やがて絵具から油分が抜けて、往年の輝きを失ってしまったのである。戦後の油絵画家共通の弊であった。
ここはどこ? 白隠慧鶴 1686-1768 いきなり「犬に仏性ありやなしや?」とか問われてねえ。
現代の主婦にも役立つ禅の公案とは、他でもない、町の病院で出される。風邪かなと思って行ったら肺ガンで、「余命はあと半年です」とか言われたおじさん、おばさんが僕の周りに数人いる。
最高の公案だ(笑)。禅僧も逃げ出す。しかし患者は逃げられない。文字通り生死の巌頭に立たされる。
生とは? 死とは? シーン。「分かりません」のない苛酷な問いだ。公案どころじゃないよ。
しかし、よく考えてみると、今、俺は生きているぞ。ホラ。元気だし。
おまけに、今「生きている」と僕らは信じているが、いったい誰がそう決めたんだ? 本当はここが「あの世」かもしれませんぜ、旦那。
どっちにしても、僕らはここに今、いるしかないんだよ、宇宙開闢(かいびゃく)以来。
どっちの世でもいいけど、命の引ッ越しが怖いんだな。家の引ッ越しも嫌だけど、越してしまえば大概新居の方が良い。だってそこしかないんだもの。
怖いからお医者様にすがると、抗ガン剤をくれた。一錠飲んでみると大変! 一瞬にして総毛立ち、心身はあの世とこの世を往来して、生きてるのか死んでるのか分からない。
これは俺の「生」じゃない。じゃ誰のだ? 分からない。ゲロゲロ。すぐ止めた! 先生すみません、明日死んでもいいから、今日楽しようと決めました。ルンルン。
あれ? 今までの俺のやり方と同じだ(笑)。閻魔様が怒ってるよ。「早くしろ!」つて、うるさい、これは俺の命だ。
「そのまま10年経っちまったよ」とおじさんは笑う。
さて白隠さんは悠々と書き始めたが、だんだん余白がなくなり、寸づまりになっちまった。どこか突然の「余命半年」に似て、妙味ですな。
※ ここにある〈風邪かなと思って行ったら肺ガンで、「余命はあと半年です」とか言われたおじさん、おばさんが僕の周りに数人いる。〉は、まさしく堀越くん本人であろう。
林武 wikipediaより
林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日 - 1975年(昭和50年)6月23日)は、日本の洋画家である。東京都出身。本名は武臣(たけおみ)。大正末期から画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。孫は元衆議院議員の林潤。 年譜 1896年(明治29年)- 12月10日 東京都麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。父・甕臣(みかおみ)は国語学者、祖父・甕雄(みかお)は歌人、曽祖父・国雄は水戸派の国学者。 1909年(明治42年)- 牛込区余丁町小学校を卒業。同小学校では東郷青児が同級生で、担任の先生だった本間寛に東郷とともに画才を見出される。 1910年(明治43年)- 早稲田実業学校に入学、学費が払えず実家が営んでいた牛乳販売店で労働しながら通学するが、体調を崩して中退する。 1913年(大正2年)- 東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。 1917年(大正6年)- 新聞や牛乳の配達、ペンキ絵を描いたりして生計を立て画家を志す。 |
白隠慧鶴 wikipediaより
白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。諡は神機独妙禅師、正宗国師。 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。また、他の宗門に対して排他的な態度をとったことでも知られている。 以後は地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。 現在、墓は原の松蔭寺にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されている。 |