カラヤン:ベルリンpo 1987 小澤征爾:サイトウキネンo 1987 チェリビダッケ:ミュンヘンpo バーンスタイン:ウィーンpo 1981 アバド:ベルリンpo 1987 ヴァント:北ドイツ放送so 1982 フルトヴェングラー:ベルリンpo 1952 トスカニーニ:NBCso 1951 ワルター:コロンビアso 1959
※ 数字は録音年
指揮者によって、テンポがこんなにも違うのかと驚いています。
ブラームス wikipediaより
『ヨハネス・ブラームス』より : ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms、1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者である。J.S.バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と共に、ドイツ音楽における「三大B」とも称される。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没する。作風はおおむねロマン派音楽の範疇に属するが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い。 一部には、ブラームスをしてベートーヴェンの後継者ととらえる人もおり、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評した。 生涯 ハンブルクで生まれる。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、市民劇場のコントラバス奏者であった。後年になってブラームスが語った話によれば、家の表札には「Brahmst(ブラームスト)」と書かれていたという。子供の頃から「ブラームス」と頭に刷り込まれていたブラームスは、最後の「t」が嫌で、表札をしょっちゅう指でこすり、しまいには消してしまった。 |
カラヤン wikipediaより
『ヘルベルト・フォン・カラヤン』より : ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった。 人物・来歴 カラヤンは1908年にザルツブルク州のザルツブルクで、騎士(Ritter)の子として生まれた。兄のヴォルフガング(1906年-1987年)も後に音楽家になっている。ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。 |
小澤征爾 wikipediaより
小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年9月1日 - )は、日本人指揮者である。2002-2003年のシーズンから2009-2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。 栄典・表彰歴として文化勲章受章など。主な称号はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員など。 満洲国奉天市(中国瀋陽市)生まれ。父小澤開作は歯科医師、満州国協和会創設者の一人で、同志で満州事変の首謀者となった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した。1941年3月、父を満州に残したまま母や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園。1942年4月、立川国民学校(現・立川市立第一小学校)に入学。1945年、長兄の小澤克己(のち彫刻家になる)からアコーディオンとピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に対して本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価に譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄と次兄(小澤俊夫)とで3日かけて立川市の自宅まで運搬した。 |
チェリビダッケ wikipediaより
『セルジュ・チェリビダッケ』より : セルジュ・チェリビダッケ(セルジウ・チェリビダッケとも、Sergiu Celibidache ([ˈserd͡ʒju t͡ʃelibiˈdake], 1912年7月11日 - 1996年8月14日)は、ルーマニア生まれでドイツで活躍した指揮者・作曲家。 出生 ルーマニアのローマン(Roman)に生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、21歳頃まで同地で過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていたという。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したため、イディッシュ語も堪能であったばかりでなく、多くの言語に精通したポリグロットであった。また晩年には仏教に改宗し、日本でも多く参禅を行なっている。 指揮者として ベルリン時代 チェリビダッケは初めパリに留学したが、1936年にベルリンに移り、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学やベルリン音楽大学で音楽、数学、哲学などを学んだ。 |
バーンスタイン wikipediaより
バーンスタイン、バーンシュタイン (Bernstein) は、英語圏のユダヤ系の姓。琥珀を意味するイディッシュ語(ドイツユダヤ語)を由来に持つ。ドイツ語としての慣用カタカナ表記は「ベルンシュタイン」。 バーンスタイン エルマー・バーンスタイン - アメリカの作曲家。 カール・バーンスタイン - アメリカの新聞記者。 ダニエル・バーンスタイン - アメリカのソフトウェア開発者。 リチャード・J・バーンスタイン - アメリカの哲学者 リチャード・K・バーンスタイン - アメリカの内科医 レナード・バーンスタイン - アメリカの指揮者、作曲家。 バーンスタイン織美也 - アイドルグループTokyo Cheer2 Partyのメンバー。日米のダブル。 バーンスタイン (競走馬) - アメリカの競走馬。 アンジェラ・バーンスタイン - 獸木野生の漫画の登場人物。 バーンシュタイン アーデルハイド・バーンシュタイン - 対戦型格闘ゲーム『ザ・キング・オブ・ファイターズ』シリーズの登場人物。 |
クラウディオ・アバド wikipediaより
クラウディオ・アバド(またはアッバード、Claudio Abbado, 1933年6月26日 - 2014年1月20日)は、イタリア、ミラノ出身の指揮者である。 生い立ち 1933年にミラノの音楽一家に生まれる。父のミケランジェロ・アバドはイタリア有数のヴァイオリンの名教育者であり、ヴェルディ音楽院の校長を務めた。19歳の時には父と親交のあったトスカニーニの前でJ.S.バッハの協奏曲を弾いている。 指揮者としてデビュー ヴェルディ音楽院を経て、1956年からウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で指揮をスワロフスキーに学んだ。1959年に指揮者デビューを果たした後、カラヤンに注目されてザルツブルク音楽祭にデビューする。ベルリン・フィルやウィーン・フィル、シカゴ、ドレスデンなどの桧舞台に早くから客演を重ね、確実にキャリアを積み重ねていく。 ミラノ・スカラ座時代 1968年にミラノ・スカラ座の指揮者となり、1972年には音楽監督、1977年には芸術監督に就任する。 |
ヴァント wikipediaより
『ギュンター・ヴァント』より : ギュンター・ヴァント(Günter Wand, 1912年1月7日 - 2002年2月14日)はドイツ・ラインラント地方のエルバーフェルト(現在、エルバーフェルトはバルメンと合併してヴッパータールと改称し、その一部となっている)に生まれたドイツ人指揮者。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーといったドイツ音楽を得意とする一方、ストラヴィンスキーやメシアンのような現代音楽作品も積極的に演奏した。 生涯 ギュンター・ヴァントはミュンヘン音楽院とケルン音楽大学に学んだ。後年における彼の演奏活動を考える上で興味深いのは、当時ミュンヘン音楽院の院長を務めていたジークムント・フォン・ハウゼッガーに会い、強い印象を受けていることである。ハウゼッガーはブルックナーの交響曲を原典版で演奏した初めての指揮者であり、一つの演奏会の中でレーヴェによる改訂版と原典版の両方を指揮するという試み(演奏されたのはブルックナーの交響曲第9番)も行ったことがあるという。 |
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー wikipediaより
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886年1月25日 ベルリン - 1954年11月30日 バーデン=バーデン)は、ドイツの指揮者、作曲家。伴奏ピアニストとしての演奏も行った。 カラヤンの前にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる。 |
アルトゥーロ・トスカニーニ wikipediaより
アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。 1867年 3月25日、イタリア北部の町パルマのオルトレトレンテ(労働者階級が住む地域)ボルゴ・サン・ジャコモ(現ボルゴ・ロドルフォ・タンツィ)13番で生まれる。父クラウディオは仕立屋。母パオラ(パオリーナ、旧姓はモンターニ)は裁縫師。アルトゥーロは第1子で、唯一の男児。(子供は計4名。) 1871年 初めて歌劇場に連れて行かれ「仮面舞踏会」を聴く。 1876年 パルマ王立音楽学校に入学。当初は通学生。後に寮生となる。 1885年 9年間の厳しい教育の後、チェロと作曲で最高の栄誉を得て首席で卒業。(ピアノも最高点。)巡業歌劇団と首席チェロ奏者・副合唱指揮者の契約を結ぶ。18歳の若者にとってこれは名誉な事であった。 1886年 6月30日、歌劇団のブラジル リオ・デ・ジャネイロ公演において、ヴェルディの「アイーダ」の指揮者として突然デビューすることとなる。 |
ブルーノ・ワルター wikipediaより
ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)は、ドイツ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家。より正確なドイツ語読みはヴァルターであり、そのように表記される場合もある。また、本来の苗字はシュレージンガーであり、これは彼がブレスラウの歌劇場の指揮者になったとき、ブレスラウにはシュレージンガー姓のものが多いので、ヴァルターに改めたという。そのため、ヴァルター・シュレージンガーと表記されることも稀にある。 20世紀を代表する偉大な指揮者の1人で、モーツァルトやマーラーを得意とした。戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニとブルーノ・ワルターを「三大巨匠」と呼ぶことが多かった。 作曲家として2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残している。 ワルターの生涯 生誕から指揮者となるまで ドイツ系ユダヤ人の父親とキリスト教徒に改宗した東欧から移住したユダヤ系の母親の間の子として、ベルリンに生まれる(ブルーノ本人はキリスト教徒)。 |