紅葉狩りに鳥海山麓の高瀬橋に行きました。
途中、月光川の旧朝日橋の石の欄干にとまっているアオサギを撮りました。橋の下で産卵しているサケを狙っているようでした。この橋は映画おくりびとに登場し、このラストで主人公が、鳥海山を背景にチェロを弾いたのもこの近くの土手です。
高瀬橋の婆様が淵の紅葉。
コシアブラの「紅葉」は白くなり半透明です。油を濾す紙がコシアブラの由来です。
ここで文体が変わりますが、さっき書きなぐったエッセーです。
合唱団に入ったのは4年生の時だった。4年生担ったらボーイスカウトに入ると勝手に決めていたのだが、母が女学校時代の同窓会に出席し、そこで会った音楽の先生が今は少年合唱団を主催していると聞き、その演奏会にぼくを連れて行ったのが運命だった。
東京少年合唱隊といい、練習スタジオは新宿百人町、つまり新大久保にあった。今でも先生の娘さんが後を継いで、少年少女合唱隊として活動している。
少年合唱団生活は、ぼくの思い出の中で大きな位置を占めているのだが、わずか1年弱だったようなのだ。5年生の冬の時の定期演奏会のあと、突然卒業を言い渡されてしまった。本人はまだ自覚がなかったのに、変声期が始まっていたのだ。
北海道演奏旅行、ウィーン少年合唱団との交流、皇太子の結婚式当日の特別番組に出演するために学校を休んでスタジオ入りしていたら、他の出演者に押されて出番がなくなってしまい、先生が烈火のごとく怒ったこと、交通費(出演料)だけもらって局の外に出たら遠くに馬車の列が見えたこと(テレビ局は六本木にあった。日本教育テレビ、今のテレ朝だろう。)、クリスマスの真夜中のミサのため青山チャペルに行き、帰り道、渋谷駅前で40円のラーメンをすすったこと(5年生が)、帰りのバスの車窓から見たワシントン・ハイツのクリスマスイルミネーションがさびしかったこと……思い出はつきない。
突然の卒業は、ショックで心のダメージが大きかった。学校では劣等生扱いされていたけれど、歌が心の支えになっていたのだ。変声期から抜けだして、大人の声でもいいのだと自分を納得させるのには数年かかったっけ。
先日、偶然サラ・オレインがテレビ出演していた。オーストラリア生まれ、バイオリンの名手であり、優れた歌手でもある。絶対音感だけでなく、音に色を感じるのだという。留学先は日本ならいいと母に言われ、いやいや東大に入ったのだとか。天は二物どころか彼女にいくつ与えたのだろう?
バイオリンは習ったが、歌は独学。ボーイソプラノに憧れて密かに練習したのだと言っていた。ビブラートのない澄んだ声はそのためなのだろう。
女の子はいいなあと思った。本物のボーイソプラノは続けることができないのだ。最高のボーイソプラノは変声期直前の声だと聞いたことがある。
先日、恒例の市民音楽祭が酒田市であった。いくつもの合唱団が参加したのだが、やはり年齢が上がるにつれ、不必要なビブラートが大きくなっていく。腹筋が制御できなくなるのだ。困ったものである。