名古屋で開催されていた企画展「表現の不自由展・その後」が開幕から3日で中止なりましたが、まさしくこの国の「表現の不自由」を象徴したような出来事です。
河村名古屋市長の「日本国民の心を踏みにじる」菅官房長官や柴山文科相の「公的施設を使い、公金を受け取るのであれば、行政の意に沿わぬ表現をするべきではない」など戦前の日本かと見まがう発言です。
トルストイは、芸術とは感情のコミュニケーションであると提唱して、「なんらかの外側へ向けた表示によって、ある人が意識的に自身の経験している感情を他者に伝え、その他者はそれらの感情に影響を与えられ、またそれらを体験する。芸術とは、これの中に存する人間の活動である」と言っています。
「表現の自由」とは、作品を制作発信する側の自由とそれを受け取る側の自由が表裏一体になって成立するものです。ある作品を「戦争の悲惨」を感じるか「ただ醜い、恐怖」「権力への反抗」と感じるかは見る人の経験と感性です。時の権力者・政権の意向にそぐわないから排除するでは戦前の日本に逆戻りです。
そういった点からも、この「表現の不自由展・その後」事件が「表現の自由」をみんなで考える切っ掛けにしなければと思っています。
あいち企画展 中止招いた社会の病理 引用元:朝日新聞 社説 2019.08.06.
人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを根底で支える「表現の自由」が大きく傷つけられた。深刻な事態である。
国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」が、開幕直後に中止に追い込まれた。
過去に公的施設などで展示が許されなかった作品を集め、表現行為について考えを深めようという展示だった。芸術祭として個々の作品への賛意を示すものではなかったが、慰安婦に着想を得た少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像に抗議が殺到した。放火の予告まであったという。もはや犯罪だ。警察は問題の重大さを認識し、捜査を尽くさねばならない。
気に入らない言論や作品に対し、表現者にとどまらず周囲にまで攻撃の矛先を向け、封殺しようとする動きが近年相次ぐ。今回はさらに、政治家による露骨な介入が加わった。
芸術祭実行委の会長代行を務める河村たかし名古屋市長が、「日本国民の心を踏みにじる」などと展示の中止を求め、関係者に謝罪を迫ったのだ。
市長が独自の考えに基づいて作品の是非を判断し、圧力を加える。それは権力の乱用に他ならない。憲法が表現の自由を保障している趣旨を理解しない行いで、到底正当化できない。
菅官房長官や柴山昌彦文部科学相も、芸術祭への助成の見直しを示唆する発言をした。共通するのは「公的施設を使い、公金を受け取るのであれば、行政の意に沿わぬ表現をするべきではない」という発想である。
明らかな間違いだ。税金は今の政治や社会のあり方に疑問を抱いている人も納める。そうした層も含む様々なニーズをくみ取り、社会の土台を整備・運営するために使われるものだ。
まして問題とされたのは、多数決で当否を論じることのできない表現活動である。行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。その逆をゆく市長らの言動は、萎縮を招き、社会の活力を失わせるだけだ。
主催者側にも顧みるべき点があるだろう。予想される抗議活動への備えは十分だったか。中止に至るまでの経緯や関係者への説明に不備はなかったか。丁寧に検証して、今後への教訓とすることが欠かせない。
一連の事態は、社会がまさに「不自由」で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい。
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