桜の名所で考えたこと
鳥海山のふもと、山形県遊佐町に桜の名所があります。中山河川敷公園といい、鳥海山から流れ下る渓流のほとりに植えられたソメイヨシノが咲き誇ります。天気に恵まれれば、渓流を正面に、背景に雪を戴く鳥海山、そして左岸に黒い瓦の民家群があり、訪れた櫃が土手の道をそぞろ歩いています。 うれしいことに、ここにはレジャーシートを広げたほろ酔いの花見客も、屋台ややかましい発電機の音もなく、個人的には一押しの桜の名所でした。 過去形で表現したのは、だんだん様子が変わってきてしまったからです。 これには賛否両論あるのでしょうが、たくさんのこいのぼりが渡されて水面の上で翻っています。初めはロープ1本でしたが、最近は数が増えました。桜の木には提灯が張り巡らされました。夜桜見物ができるようにとの配慮です。おまけに、スピーカーから大音量の演歌が流されています。 口コミや地元のミニコミなどで知った人が数多く訪れるようになった結果、河川敷で宴会をする姿も増えてきました。駐車スペースもなくなってきています。 こうなっては、この場所の素朴でのどかな良さは失われてしまいます。まことに残念でなりません。
いやいや、この季節外れなレポートは、そんな愚痴を言うためではありませんでした。 ここの堤防をそぞろ歩いていると、ちょっとした発見があります。古民家とぼくが呼んだ家々は、石を積んだ土台の上に建っています。土手側に水門のような頑丈な塀と木戸のある屋敷もあります。 想像できるのは、ここはたびたび洪水に見舞われたのだろうということです。木戸を閉めてしまえば、水の流入を防ぐことができるのでしょうし、石垣で家を高くしているのでしょう。 さらに気がつくのは、堤防の高さの違いです。集落の対岸には広い田んぼがあります。そちら側の堤防は、集落がある側よりも明らかに低いのです。手抜きか、予算不足か、なぜでしょうか? たぶん、それはわざとそうなっているのです。「川はあふれるもの」なのです。どんなに高く、頑丈な堤防を築いても、それをしのぐような嵐がやってくるかもしれないというのが、古来の考え方なのだと思います。それなら、被害を少しでも和らげるように水があふれる方向を誘導してやろうということです。集落側の堤防を守るためには、対岸からあふれるように仕向けてやればいい。水を田んぼ側に流してやれば、集落のほうは洪水を免れるかもしれない。田んぼの方は水が引けば回復できる可能性もあります。 そう考えたら、自然と向き合ってきた昔の人の知恵と姿勢に感服してしまいました。 自然と闘って勝てるわけはない、ならばうまくコントロールしてつきあってやろうというような。
もっとも、近年の自然災害は、私たちが経験して培ってきたノウハウをしのぐ恐ろしさです。その原因がCO2による地球温暖化なら、「自然」災害ではなく、「人為的」災害なのでしょう。「温暖化はない。デマだ、フェイクニュースだ。」などと現実を直視しない政治リーダーに地球を委ねてはなりますまい!
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