昨年、ポリーニがベートーヴェン後期ピアノ・ソナタを再録音しCD化したのを機に32番の聴き比べを企画しました。
今回は、ポリーニの新盤以外はすべて手持ちのレコードからの収録です。こうして八人の巨匠を聴き比べると音楽性の違いが顕著になり、改めてクラシック音楽の醍醐味を再認識させられます。
ブレンデル(1970年録音) グールド(1956年) アシュケナージ(1971年) バックハウス(1961年) グルダ(1967年) ケンプ(1964年) ミケランジェリ(1969年) ポリーニ(1977年・2019年)
ピアノソナタ第32番 (ベートーヴェン) wikipediaより
ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1822年に完成した、作曲者最後のピアノソナタ。 ベートーヴェン最後のピアノソナタの作曲は、第30番作品109、第31番 作品110と並行する形で進められた。1819年頃にはスケッチに着手しており、1820年9月20日の書簡ではこの曲の作曲を進めている最中であることが報告されている。その後、浄書開始の日付として譜面に1822年1月13日の日付が書き入れられており、この直後に全曲の完成に至ったと思われる。当時のベートーヴェンは『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番などの大作にも取り組んでおり、これら晩年の作品群は同時に生み出されていったことになる。 この曲の完成をもってベートーヴェンは初期より続けてきたピアノソナタ作曲の筆を折る。この曲の後のピアノ作品には『ディアベリ変奏曲』などが続くものの、ピアノソナタが書かれることはついになかった。1822年6月5日付の書簡では次なるピアノソナタが近いうちに出来上がる旨、楽譜出版社のペータースに伝えているが、該当する作品の存在は草稿としても確認されていない。 |
アルフレート・ブレンデル wikipediaより
アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel, 1931年1月5日 - )は、チェコ出身でクロアチアで育った、オーストリアのピアニスト。 北モラヴィア地方のヴィーゼンベルク(現ロウチュナー・ナド・デスノウ)生まれ。第一次大戦後なので、既にチェコスロヴァキア領になっていた。ホテル経営者の両親のもとに生まれ、音楽への興味はレコードやラジオを通して育まれた。 6歳からピアノを学び始め、両親とともにザグレブに移った後、ソフィア・デゼリチェというピアニストから正式なレッスンを受けるようになった。1943年にグラーツに移り、グラーツ音楽院でルドヴィカ・フォン・カーンにピアノを、アルトゥール・ミクルに音楽理論を師事している。 1947年に音楽教員の資格を取得するためにウィーンへ行き、ウィーン音楽院でパウル・バウムガルトナーやエドゥアルト・シュトイエルマンに短期間学んだものの、ほぼ独学でピアノのレッスンに励んだ。 |
グレン・グールド wikipediaより
グレン・ハーバート・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家、身長180.5cm。 生涯 デビューまで 1932年9月25日、トロントに生まれる。旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。母はノルウェーの作曲家グリーグの親類である。 母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロント王立音楽院に合格。同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルヴェスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレロよりピアノを習う。1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。1945年にオルガン奏者としてデビュー。同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。 |
ウラディーミル・アシュケナージ wikipediaより
ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади́мир Дави́дович Ашкена́зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。マウリツィオ・ポリーニ、マルタ・アルゲリッチ等と並んで、20世紀後半を代表するピアニストの一人である。 1937年にソヴィエト連邦のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)の音楽家の家庭に生まれた。父親はソ連軽音楽界で活躍したダヴィッド・アシュケナージ。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。 1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し、2位に輝いた(優勝はアダム・ハラシェヴィチ)。 |
ヴィルヘルム・バックハウス wikipediaより
ヴィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus, 1884年3月26日 - 1969年7月5日)は、ドイツ・ライプツィヒ出身のピアニスト。ウィルヘルムとも表記される。ドイツ国籍であったが、のちスイスに帰化した。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、カール・ツェルニー、フランツ・リストの直系の弟子。 幼い頃から母親にピアノの手ほどきを受け、7歳で入学したライプツィヒ音楽院でアロイス・レッケンドルフに師事。フランクフルトにて、当時全く弟子をとっていなかったオイゲン・ダルベールに絶賛され、1897年から師事した。レッスンは隔週であったという。 1900年、16歳の時にデビューし、最初のコンサートツアーを行った。1905年、パリで開かれたルビンシュタイン音楽コンクールのピアノ部門に出場し優勝した。このときの第2位はのちに作曲家として大成するバルトーク・ベーラで、当時自分の人生をピアニストとして思い描いていたバルトークは深く落胆することになった。 |
フリードリヒ・グルダ wikipediaより
フリードリヒ・グルダ(Friedrich Gulda, 1930年5月16日 - 2000年1月27日)は、オーストリアのピアニスト・作曲家。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの演奏を特に得意とした。ジャズ演奏でも知られる。20世紀を代表する巨匠ピアニストの一人である。1960年代はイェルク・デームス、パウル・バドゥラ=スコダとともにウィーンの三羽烏と呼ばれた。最初の妻との子パウル、2人目の妻・祐子(ジャズピアニスト/日本人)との三男リコはともにピアニスト。日本に対しては妻が日本人だったこともあり、親近感を抱いていたことでも知られる。来日歴は1967年、1969年、1993年の3度。 1930年、ウィーンに生まれる。 1942年、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学し、ブルーノ・ザイドルホーファーに師事。 1946年、ジュネーブ国際音楽コンクールで一等賞を受賞。 1947年、初のレコーディング。バッハ、ベートーヴェン、ショパン、プロコフィエフなどを録音。 1955年頃、マルタ・アルゲリッチを指導。 1967年 - 1968年、3回目となるベートーヴェン『ピアノソナタ全集』録音。 |
ヴィルヘルム・ケンプ wikipediaより
ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff, 1895年11月25日-1991年5月23日)は、ドイツのピアニスト、オルガニスト、作曲家、教育者。 生涯 幼少期からヴァイマール共和国時代 ブランデンブルク州・ユーターボークに生まれ、父親がポツダムのニコライ教会オルガニストに就任したのちは、幼時よりピアノ、オルガンを学び、卓越した才能を示した。ベルリン音楽大学でロベルト・カーン(作曲)とカール・ハインリヒ・バルト(ピアノ)に師事し、1917年にはピアノ組曲の作曲によりメンデルスゾーン賞を受賞、1918年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニーとベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番で協演した。1920年にはシベリウスの招きで北欧を歴訪、スウェーデン王室よりLitteris et Artibus勲章を授与された。この年にはドイツ・グラモフォンにベートーヴェンのエコセーズWoO.86およびバガテル集Op.33-5を初録音している。1924年から1929年にはマックス・フォン・パウアーの後任としてシュトゥットガルト音楽大学の学長を務めた後、1931年にはポツダムの大理石宮殿で、マックス・フォン・シリングス、オイゲン・ダルベール、エトヴィン・フィッシャー、エドゥアルト・エルトマン、エリー・ナイ、ゲオルク・クーレンカンプらと共同でサマークラスを開催した。 |
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ wikipediaより
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli, 1920年1月5日 – 1995年6月12日)は、イタリアのピアニスト。単にミケランジェリと呼ばれることが多いが(本項でも以下これを用いる)、本来は「ベネデッティ・ミケランジェリ」が姓である。 ブレーシャ地方の出身。アッシジの聖フランチェスコの末裔と自称していた。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学んだが、間もなくピアノに切り替えた。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともある。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めるが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選にとどまった。翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから「リストの再来」と賞賛された。 第二次世界大戦中はファシズムに対するレジスタンス運動の闘士としても活躍した。 戦後間もなく楽壇に復帰したが、1950年代に入ってから重病を患って一時は復帰が危ぶまれた時期もあった。 |
マウリツィオ・ポリーニ wikipediaより
マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - )は、イタリアのミラノ出身のピアニスト。 父親は建築家ジノ・ポリーニであり、また母親(彫刻家ファウスト・メロッティの妹)は声楽もこなすピアニストである。5歳からカルロ・ロナーティに、ロナーティの死後はカルロ・ヴィドゥッソにピアノを学ぶ。現役では最も高い評価を受けているピアニストのうちのひとりである。 1957年、15歳でジュネーブ国際コンクール第2位(マルタ・アルゲリッチは女性部門で1位)。1958年の同コンクールで1位なしの第2位。1959年のポッツォーリ・コンクールで優勝。 1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。 その後10年近く、表だった演奏活動から遠ざかる(本人はこれを否定していて、様々なコンサート、リサイタルに出演した)。 |