第二楽章冒頭部分を
ポリーニ、アシュケナージ、ルビンシュタイン、リヒテル、アルゲリッチ、ケンプ、アラウ、ペルルミュテル、ホロヴィッツで聴き比べてみました。
ペルルミュテルはモノラル録音、ホロヴィッツは1965年カーネギーホールのライブ録音です。
R. シューマン作曲前期作品の特徴から見た 「幻想曲 ハ長調 作品 17」の演奏解釈に関する一考察 引用元:岩佐 明子
第2楽章 冒頭に第1楽章の主要主題「クララのテーマ」が表れている。そして、1 回目の A では強弱記号がmezzoforte と指示されており、左手は 1 オクターヴ以上の分散和音となっている。また、2 回目の A では、強弱記号が fortissimo と指示されている。各和音は、アーフタクトで打鍵した後、拍と同時にバス音を打鍵するが、和音、バス音どちらにも sforzato が示されている。これは、シューマン特有の拍をずらす記譜法で、第 97 小節になって元の拍感に戻される。第 97 小節 1 拍目は、sforzato が示され A の中で最も高音になる。そして、元の拍感に戻ることから、特に音を強調することが求められる。 第 203 小節からの 3 回目の A では、強弱記号が forte fortissimo と指示されている。バス音を打鍵した後に和音を打鍵するため、バスの響きの上で和音を構成することになり、これまでのA より音量を増 すことができる。 ま た、ritardando の指示があり、朗々と演奏できることも、この部分の特徴と言える。3 回表れる Aは、回を追うごとに音量の指示が強くなっていること、それに沿って書法が変化していることで、徐々に曲を盛り上げていくことが明らかとなっている。 |
ウラディミール・ホロヴィッツ wikipediaより
『ヴラジーミル・ホロヴィッツ』より : ヴラディーミル・サモイロヴィッチ・ホロヴィッツ(Vladimir Samoilovich Gorovits(Horowitz), Владимир Самойлович Горовиц(Vladimir Samojlovič Gorovic/Horovyc), 1903年10月1日 - 1989年11月5日) は、ウクライナ生まれのアメリカ合衆国 アメリカのピアニスト ピアノ奏者である。指揮者 名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ トスカニーニの娘婿にあたる。ロシア語では”ゴロヴィッツ”と発音するが、ウクライナ語では”ホロヴィッツ”となる。 ホロヴィッツの演奏における音色、技巧、刺激的な熱情は他のピアニストを寄せ付けない。彼が行ったドメニコ・スカルラッティやアレクサンダー・スクリャービンのピアノ作品演奏は伝説的と言われる。その一方で、批判派によれば彼の演奏は一様にホロヴィッツ風の味付けに解釈されており、時には気取り過ぎ、また多くの場合は作曲者の意図(強弱、長短、速度など)を歪曲して弾いている。こういった事はホロヴィッツであるから許されるのであって、他のピアニストが行うと非難の的となるであろう。
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ウラディーミル・アシュケナージ wikipediaより
ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади́мир Дави́дович Ашкена́зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。マウリツィオ・ポリーニ、マルタ・アルゲリッチ等と並んで、20世紀後半を代表するピアニストの一人である。 1937年にソヴィエト連邦のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)の音楽家の家庭に生まれた。父親はソ連軽音楽界で活躍したダヴィッド・アシュケナージ。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。 1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し、2位に輝いた(優勝はアダム・ハラシェヴィチ)。 |
スヴャトスラフ・リヒテル wikipediaより
スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(ロシア語: Святосла́в Теофи́лович Ри́хтер、ウクライナ語: Святослав Теофілович Ріхтер、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)は、ソビエト連邦のピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。 生涯 1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでドイツ人ピアニストの父と素封家の母親のもとに生まれた。幼いころに一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが、音楽家にしようという気はなかった。父親はその後別れて行動し、後にオデッサで処刑され、母親は別の男性と再婚した。 リヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用され、多くのオペラ曲の初見を経験した。 |
マウリツィオ・ポリーニ wikipediaより
マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - )は、イタリアのミラノ出身のピアニスト。 父親は建築家ジノ・ポリーニであり、また母親(彫刻家ファウスト・メロッティの妹)は声楽もこなすピアニストである。5歳からカルロ・ロナーティに、ロナーティの死後はカルロ・ヴィドゥッソにピアノを学ぶ。現役では最も高い評価を受けているピアニストのうちのひとりである。 1957年、15歳でジュネーブ国際コンクール第2位(マルタ・アルゲリッチは女性部門で1位)。1958年の同コンクールで1位なしの第2位。1959年のポッツォーリ・コンクールで優勝。 1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。 その後10年近く、表だった演奏活動から遠ざかる(本人はこれを否定していて、様々なコンサート、リサイタルに出演した)。 |
マルタ・アルゲリッチ wikipediaより
マリア・マルタ・アルゲリッチ(Maria Martha Argerich, 1941年6月5日 - )はアルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。 ブエノスアイレスの中産階級に生まれた。父フワン・マヌエル・アルゲリッチは経済学教授や会計士を務めて、 その祖先は18世紀にスペインのカタロニア地方からアルゼンチンへ移住していて、アルゲリッチはカタロニア出の姓である。母フワニータ(旧姓ヘラー)はベラルーシからのユダヤ系移民の二世だが、ユダヤ教からプロテスタントに改宗していた。 保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された時やすやすと弾きこなしたことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。 1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。 |
ヴィルヘルム・ケンプ wikipediaより
ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff, 1895年11月25日-1991年5月23日)は、ドイツのピアニスト、オルガニスト、作曲家、教育者。 生涯 幼少期からヴァイマール共和国時代 ブランデンブルク州・ユーターボークに生まれ、父親がポツダムのニコライ教会オルガニストに就任したのちは、幼時よりピアノ、オルガンを学び、卓越した才能を示した。ベルリン音楽大学でロベルト・カーン(作曲)とカール・ハインリヒ・バルト(ピアノ)に師事し、1917年にはピアノ組曲の作曲によりメンデルスゾーン賞を受賞、1918年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニーとベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番で協演した。1920年にはシベリウスの招きで北欧を歴訪、スウェーデン王室よりLitteris et Artibus勲章を授与された。この年にはドイツ・グラモフォンにベートーヴェンのエコセーズWoO.86およびバガテル集Op.33-5を初録音している。1924年から1929年にはマックス・フォン・パウアーの後任としてシュトゥットガルト音楽大学の学長を務めた後、1931年にはポツダムの大理石宮殿で、マックス・フォン・シリングス、オイゲン・ダルベール、エトヴィン・フィッシャー、エドゥアルト・エルトマン、エリー・ナイ、ゲオルク・クーレンカンプらと共同でサマークラスを開催した。 |
クラウディオ・アラウ wikipediaより
クラウディオ・アラウ・レオン(Claudio Arrau León 1903年2月6日 - 1991年6月9日)は、南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。 チリの首都サンティアゴ・デ・チレから400km南にある都市チリャンの名門の家系に、眼科医のカルロス・アラウ(Carlos Arrau)とアマチュア・ピアニストのルクレシア・レオン(Lucrecia León)の息子として生まれた。父方の祖先はフランスのプロヴァンスの出で、本来の苗字はArrault(アロ)だったが、中世にバルセロナへ移住したとき語尾の-ltを省いて現在の苗字になった。 早くから神童として知られ、5歳で最初のリサイタルを持った。1911年にサンティアゴでデビューし、同年チリ政府の援助によってドイツに留学。ベルリンのシュテルン音楽院で、リストの高弟であるマルティン・クラウゼに師事(同門にエトヴィン・フィッシャーがいる)。 ベルリンでのデビューは1914年。大成功を収め、以後ニキシュ、メンゲルベルク、フルトヴェングラーらの大指揮者と共演。 |
アルトゥール・ルービンシュタイン wikipediaより
アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887年1月28日 - 1982年12月20日)は、ポーランド出身のピアニスト。様々な作曲家の作品の演奏で国際的な名声を博し、特にショパンの演奏では同時代の最も優れたピアニストであるとみなされている.。また、20世紀の代表的なピアニストの1人である 。ルービンシュタインの演奏家としてのキャリアは80年にも及んだ。 前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍した。ショパン以外では、ブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。 出生名Artur Rubinstein(Arthurではない)としてウッチのユダヤ人の家庭に生まれる。8人きょうだいの末子で、父は富裕な工場主であった。2歳の時、姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を魅惑的に再現してみせ、絶対音感とともにピアニストとしても並ならぬ才能の持ち主であることを証明した。ルービンシュタインも4歳の頃までには、自ら神童であると自覚していた。ハンガリーの著名なヴァイオリニストであったヨーゼフ・ヨアヒムは、4歳のルービンシュタインの演奏を聴いて強い印象を受け、家族に次のように話したという。 |
ヴラド・ペルルミュテール wikipediaより
ヴラド・ペルルミュテール(Vlado Perlemuter, 1904年5月26日 - 2002年9月4日)は、フランスのピアニストである。20世紀の代表的なフランスの作曲家モーリス・ラヴェルや20世紀最大のショパン弾きであるアルフレッド・コルトーに師事したこともある。 1904年、ポーランド系ユダヤ人として当時ロシア帝国領のコヴノ(コブノ)、現在はリトアニア領のカウナスに生まれる。3歳の時、事故で左眼の視力を失う。10歳でフランスに移住し、21歳の時にフランス国籍を取得。 成長するに従いピアノの才能を現し始め、郷土の先輩モーリッツ・モシュコフスキーに師事した。その後、アルフレッド・コルトーを尊敬し始め、師事した。はじめ「ショパン弾き」と呼ばれたが、1925年から1927年頃、ラヴェルの目の前にて、ラヴェルが作曲したピアノ曲殆ど全てを弾いた。その時に、ラヴェル本人から譜面不表記の、裏の記号、指示等全てを作曲者本人から教え込まれた。ラヴェルはピアニストに細かい指示を出すことがあまりないといわれるので、かなり珍しいことと判断される。 |