予見される東京五輪の中止
この度の下記発信は五輪の在り方そのものに関する論議を生み出しております。 これまでに寄せられたコメントを紹介させていただきます。
(その1) 「表面を糊塗し、何事も問題なしという日本のやり方は福島原発処理で世界中が知るところとなりました。知られてないと思っているのは我が日本人、特にオリンピック推進者及び関係者です。 思い知らされることとなるでしょう。「隠すより現る」ということわざの意味を。」
(その2) 「いつ新型コロナウイルスに感染するか分かりませんので、所感を書くことにしました。----- 東京商業五輪とパラは来年無理でしょう。 再来年の北京冬季五輪とパラで商業主義は終わり、半世紀ぶりにアマチュア五輪とパラになるでしょう。 原発も福島第一原発事故の処理費用が膨大になり、エコロジーなエネルギーに変わると思います。」
(その3) 「現今運動選手をアスリートとか呼称していますが、この呼称をたくさんの子供たちが得意げにさけび芸人や職業選手を目指しており勉学が疎かになっている。 日本人もジュリアス.シーザーの頃のローマ人同様サーカスや剣闘士のごときに大騒ぎしているが、スーパーマンの賞賛は僅かでよい。このゲームに使う金を困窮する市民に施すべきである。」
五輪憲章で掲げられた五輪の理念と現実の間に生じた乖離には驚くほかありませんが、東京五輪は今後の在り方についての建設的論議の出発点となることが期待されます。
(5月28日発出BCC発信)
東京五輪の最大の問題は、放射能の存在を一定の限度容認する原子力緊急事態宣言の無視です。 福島原発事故から目をそらさせ、そこから発生した放射能の危険性を無視しているのです。危険です。無責任、不道徳です。
延期された東京五輪の開催見通しがコロナ・パンデミックとの関連で判断されようとしていますが、間違っております。国際社会が必ず問題にするのは安全かどうかで、そもそも原子力緊急事態宣言が解除されていないことだけで東京五輪は失格となるべきだったのです。日本の市民社会が当初から、倫理の立場から東京五輪の挫折を予見している所以です。
世界も日本もいつまでも放射能無視を放置するはずがありません。 いまだにこのような視点に立つことを忘れた国際組織(国際原子力機関、交際オリンピック委員会、世界保健機関など)は早晩改変を迫られることが予見されます。
世界を一変しつつある新型コロナは経済至上主義を照準に収めております。 グローバリズム、資本主義についてすら同様といえそうです。
大不況の到来により困窮者、失業者等の激増が予見され、「五輪どころではない」との声が高まりつつあります。延期が各方面に及ぼしつつある不安の中の大迷惑を最小限にするためにも五輪中止の決定とこれに伴う危機管理の開始が急がれます。
コロナ感染の第2波の到来が予見される10月を待てば混乱は不可避であり、対応困難となることが深刻に懸念されます。さらなる延期はないこと、開催の可否を10月に決めるとの立場を明らかにしている国際オリンピック委員会が開催を楽観視しているとは到底思えません。
その後も市民社会から下記コメントが寄せられております。 いずれも傾聴に値するもので深い感銘を覚えます。 五輪そのものの在り方に関する市民レベルでの論議は始まった感があります。
(その1) 様々なメッセージ 全て頷けます。抑々オリンピック招致から判断ミスであった訳で、根本的な福島原発の解決ないまま、ここまで許してきたことは、決して看過出来ません。 今回のパンデミックでパラダイムが根底から変わると思います。 従来の価値観が根底から見直されるべき時代の足音が、刻々聞こえて来るようです。
(その2) そもそも「緊急事態」のままで復興五輪という名目で招致したことが国際的にも、国民に対しても欺瞞に満ちた恥ずべき行動であり、さらに開催困難な事態にも「中止」とせず、更に国民に無駄な負担を強いることの不条理・不道徳性は明らかだと考えます。
(その3) 「東京五輪の最大の問題は、放射能の存在を一定の限度容認する原子力緊急事態宣言の無視です」この一文章で問題の核心を言い切っていますね。 「原子力緊急事態宣言」は確かに未だ解除されていませんが、この理由は帰還困難区域が一部残されているからだと判断されます。
(その4) そもそも東京五輪の招致には、数億円の大金が賄賂で使われ、フェアな方法で無かったことが暴露されています。 加えて開催時期も東京の盛夏の7−8月で、酷暑が予想される昨今、アスリートや観客に対する健康上の大なる問題が提起されていました。 更に日本は地震多発国で、早晩巨大地震が発生する可能性すら予見され、散在する原子炉の安全性が強く問われています。 福島原子炉のあと片付けもこれからです。
(その5) このような国際的にも国内的にも正当性を欠くイベントを推進強行する政権に対し、国内では批判できない空気の中、権力に忖度せず正義を求める市民社会の存在は、日本の正義・道徳の高さを示し、日本の国益と名誉を守るものだと考えます。
上述の通り、いずれも傾聴に値するもので深い感銘を覚えます。 東京五輪のスポンサーとなっているメディアのますます苦しい立場が思いやられます。 「社会の木鐸」という原点への復帰を期待してやみません。
(5月30日発出のBCC発信)
この度の下記発信は五輪の在り方そのものに関する論議を生み出しております。 これまでに寄せられたコメントを紹介させていただきます。
(その1) 「表面を糊塗し、何事も問題なしという日本のやり方は福島原発処理で世界中が知るところとなりました。知られてないと思っているのは我が日本人、特にオリンピック推進者及び関係者です。 思い知らされることとなるでしょう。「隠すより現る」ということわざの意味を。」
(その2) 「いつ新型コロナウイルスに感染するか分かりませんので、所感を書くことにしました。----- 東京商業五輪とパラは来年無理でしょう。 再来年の北京冬季五輪とパラで商業主義は終わり、半世紀ぶりにアマチュア五輪とパラになるでしょう。 原発も福島第一原発事故の処理費用が膨大になり、エコロジーなエネルギーに変わると思います。」
(その3) 「現今運動選手をアスリートとか呼称していますが、この呼称をたくさんの子供たちが得意げにさけび芸人や職業選手を目指しており勉学が疎かになっている。 日本人もジュリアス.シーザーの頃のローマ人同様サーカスや剣闘士のごときに大騒ぎしているが、スーパーマンの賞賛は僅かでよい。このゲームに使う金を困窮する市民に施すべきである。」
五輪憲章で掲げられた五輪の理念と現実の間に生じた乖離には驚くほかありませんが、東京五輪は今後の在り方についての建設的論議の出発点となることが期待されます。
皆様のご理解とご支援を心からお願い申し上げます。
村田光平 (元駐スイス大使)
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