リスを見つけるのは、たいていぼくの方。ほとんどが音です。小さな爪が木の幹をカサカサこする音、クルミをサクサクかじる音、そしてウキキというようなやんちゃな鳴き声。
クルミをかじる音はアマガエルの鳴き声と似ています。遠くで鳴くアマガエルの声の高さとリズムは、リスの歯音と紛らわしいのです。
一方、フクロウを見つけるのは連れ合いの方が多い。彼女の武器はもっぱら視力です。「今地上から飛びあがって、そこの木の枝にとまった」と言われたりするのですが、指さす方向を見てもなかなか見えない。フクロウは本当に音をたてませんし。きょろきょろ視線を動かすと、相手が黒目でじっとこちらをみつめていたりします。
そのフクロウにも、最近は会わなくなりました。もはやひなたちは親離れして独立したのだろうと思っていました。ところが15日の朝、地上から飛び立つ姿を連れ合いが発見しました。ネズミを捕えたか失敗したのか? すぐ近くの枝にとまったと言います。あたふたと探すうちに、枝から2羽飛び立ちます。すぐ近くからもう1羽、さらに……。最低でも4羽います。飛んでも、遠くには行かず近くの枝に移動しただけ。それに先にいなくなったフクロウは、いつのまにか後ろの枝に戻っています。遊ばれているみたいです。
4羽全員がヒナなのか? それとも1羽は母親なのか?
彼らもこちらを見慣れてしまったようです。岩合さんとネコの関係のように、餌付けならぬ人付けが、自然な写真を撮る極意なのでしょうが、なかなかその域に達することはできません。でも、時々相手の方が気を許してくれることがあるのがうれしい。何度も顔を合わせているうちに、危険な相手ではないことがわかるのでしょう。あ、それが「人付け」ってことか?
ところで、昨日は「終戦記念日」でしたが、「戦没者追悼式」での首相の式辞にがっかりしました。期待もしていなかったのですが。
コピペと揶揄される広島、長崎での気のない通り一遍の挨拶とは異なり、妙に力が入っているのも予想通り。そして「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたもの」と、いつもの型通りの言葉です。
「今の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築かれた」というのは、まるで戦争を美化しているように聞こえます。犠牲者とは戦争の被害者だということを忘れてはならないと思います。
ちなみに、ぼくの祖父母はフィリピンの入植者でした。満州開拓とならぶ国策だったのです。しかし戦争が始まると、アメリカが統治していたフィリピンは敵地。日本人を守るという名目で軍が侵攻したのです。現地の人に対して日本軍が行った蛮行はよく知られています。アジア各地で伝えられる野蛮で残虐な話は、フィリピンでも聞くことができるのです。日本軍が撤退すると、「日本」への怒りと恨みは取り残された入植者に向かいました。フィリピンの「残留孤児」が極端に少ないのは、現地の恨みがあまりに激しく、残しても生きていられないと親が判断して、自ら手にかけたからだ、と祖母に聞かされたことがあります。逃避行の際、まだ子どもだった叔父の一人は、命を守るために自警団に加わって銃を執ったのだといいます。
歴史を改ざんし、美化し、自らそれに酔うのは愚行でしかありません。