地方を批判する前に
近所ではこの間まで空き家だったところが取り壊されて新しい家が建ち、若い家族が越してくる。敷地に比べてこじんまりした家で、さぞ大きな庭ができるのかと思うと、スペースのほとんどにコンクリートが打たれてカーポートなる。 中心部をやや離れた郊外型の家のほとんどは、3~4台の車があるのが普通で、夫婦それぞれの車と、成人して働き始めた子どもたちの車なのだろうか。あるいは、まだ働いている老夫婦と若い夫婦の車か? コンビニやスーパー、パチンコ店など郊外の店には、途方もなく広い駐車場がある。 一方、酒田市の中心部は、もともと商業都市だったこともあり、古い家は総じて間口が狭い。車など置くスペースがないので、いわゆる店舗づくりになっていて、引き戸を開けて1階の店舗部分の土間に車を収納したりしている。 昔は車など持つ必要がなかったのだ。バスが充実していて、どこに行きのバスでも、市内を丁寧に循環していた。デパートの前の噴水には、バスを待つ老人たちが腰かけて、楽しくおしゃべりをしていたものだ。しかし、バスは本数が減り、それを埋めるべく100円均一の市営の循環バスがあるにはあるが、市内の買い物や通院には不便になっているのが実情である。 以前は、駅前から鳥海山の6合目登山口まで行くバスがあり、リュックを背負った山男や山女が行列を作って待っていたものだが、そのバスも休日のみの運行になり、やがて廃線となった。庄内に新幹線を呼ぼうとも、ジオパークを喧伝しようとも、その先の足がないのではどうしようもない。私たちだって、この先、免許証返納で運転できなくなったら、一体どうしたらいいのだろう?
先日、新聞の投書欄で、「私と車」がテーマになった。すると、車をこよなく愛する男女の、そして車なしでは暮らせない地方の人の投書が続々と寄せられた。ほとんどが高齢者だった。 数日後、やはり一人の高齢者が、厳しい反論を寄せた。「そんな甘い考えだから、脱炭素が実現できないのだ」と。そして「バスがないから車が手放せない」と嘆く地方の人に対しては「バスがなくなったのは、車社会でバスの採算が取れなくなったためで、責任はあなた方にある」と切って捨てた。
地方で暮らしていると、本人は気が付いていないかもしれない都会人の優越感がよく見えることがある。もともとバス料金はとても高かった。そうでなければ採算がとれなかったからだ。高い料金を払って1キロ先の目的地に行くために5キロも市内循環するバスを利用させられる不条理は、どこまで乗っても均一料金の都会のひとには理解できないのだろう。 車に頼らざるを得ない地方の暮らしを批判するならば、オール電化やデジタル化、キャッシュレス社会はどうなのだろうか? 10年前の震災と原発事故は、便利な暮らしのもろさと危険をいやというほど知らされたはずだったのに、何もまなんでいないように見える。 喧伝されるスマホの5ギガ、実は奥の地域には電波が届いていない。それより、震災の時、一時的にせよ、公衆電話以外の「電話」は使用不能になっていたのだし、長時間続いた停電で、多くの被災者が低体温症に苦しんだのだ。 コンビニやガソリンスタンドは、採算を度外視して食料やガソリンを提供してくれたが、キャッシュカードは使えなかったはず。 「不都合なことは予想しない。」という古代呪術社会そのままのこの国は、このままでいいわけがない。
|