今朝の朝日新聞のオピニオン欄「耕論」に「女性と戦争」とう云う題で社会史研究者とジェンダー研究者それと、まんが原作者 大塚英志氏のインタビュー記事が掲載されていました。
朝、紙面で一通りは読みましたが、さして心に引っかかるものもなく、昨晩逆転勝ちしたヤクルトスワローズの記事へ移動してしまいました。
朝食後、書斎のパソコンを開き、何時ものように受信メールを確認していく中で、朝日新聞デジタル「朝のニュースレター」で[戦争映像に「感動]する私たち 単純な善悪、止まる思考 大塚英志氏」のタイトルが目に留まり、開いてみると下記添付のインタビュー記事が、
[例えば、『ウクライナのナチ化からの解放』というロジックで『侵略』したプーチン大統領は正しくないとすれば、『アジアの解放』と言って『侵略』した、かつての私たちの国の戦争とも重なるロジックです。
大量破壊兵器を持つことを根拠にイラクに『侵攻』し崩壊させた。しかし、大量破壊兵器は出てこなかった。根拠に欠く『侵攻』だったわけです。そのアメリカを日本は支持した。]など、かなり突っ込んだ主張が展開されています。
最初、これが朝紙面で読んだ同じインタビュー記事とは気が付きませんでしたが、発言者を改めて見直すと、まんが原作者 大塚英志さんとありました。
大塚氏の主張
[今、ウクライナの戦争は、『あの戦争』がもたらした戦後的な価値観を懐疑し、現在の日本の安全保障や憲法を否定する文脈で使われている。僕はそのことを懐疑したい。『あの戦争』の検証を怠り続け、その清算のためにウクライナ戦争に便乗していないか。『感情』に自らを動員したまま『改憲』や今後の安全保障についての判断をしていないか。つまり、『戦争』に対する態度を民主主義システムのもとで民意が選択することに、もう少し冷静であるべきだということを言いたいのです。]と云う主要部分がそっくり抜けているのです。
勿論、紙面の制約で要約したものを載せているのでしょうが、これは何かに配慮した意図を感じるのですが。
何せ、同じインタビュー記事を読みながらインパクトがまるで違ったのは、私だけでしょうか。
戦争映像に「感動」する私たち 単純な善悪、止まる思考 大塚英志氏 引用元:2022.06.09. 朝日新聞デジタル版
大塚英志さん まんが原作者
ロシアによるウクライナへの侵略が始まって以降、ニュースやSNSを通じて、さまざまな情報が流れてきます。それを見て、感情を強く揺さぶられることもあります。戦時下のメディアに詳しいまんが原作者の大塚英志さんは、そうした「感情の動員」に懸念を示します。なぜ、共感してはいけないのですか?
――連日、爆撃された街や家族を亡くした人など、たくさんの映像が流れてきます。
「ウクライナ側が巧みに『感情の動員』をしていることは確かです。ゼレンスキー大統領の演説、武器を持って立ち上がった若くて美しい女性兵士、子どもが亡くなって泣き崩れる母親――。それらの映像に、私たちは『感動』している。ただそれは、今回の戦争だけの特徴というわけではない。どの戦争にも見られたことであり、かつて私たちの国が加害者となった戦争でもあった光景です」
――プロパガンダだ、ということですか。
「ウクライナに限った話ではなく、戦時下の報道というのはどちらの側がやっていることもプロパガンダです。ゼレンスキー大統領もそうだし、プーチン大統領もそうです。ただ、今、こんなことを言うと非難しかされないでしょうが『ゼレンスキーのプロパガンダ』については冷静に、その手法やもたらしたものの歴史的検証は必要です。いずれにせよ、それらを流す日本の報道もまた、国内に向けた『改憲』や安全保障の転換についてのプロパガンダとして作用する可能性は否定できません」
「しかしそもそも『プロパガンダ』と言った時、情報操作する誰かと、その被害者の民衆という構図はおかしいと、僕はずっと言っています」
――プロパガンダは大衆を誘導するものではないのですか?
女文字のプロパガンダ、日本の戦時下にも 「翼賛体制を目指した近衛文麿は、『内面より参与せしむる』という言葉を使っています。プロパガンダを内面化し、現状を肯定し、そして戦時体制にコミットしていく。つまり重要なのは情報操作でなく『感情』の動員です。そしてそのために設計されたのが『下意上達』とも『協働』とも言われた、大衆の側からの参加型によるファシズムです」
「かつての戦争においては、標語もポスターも国民歌謡も、『投稿』で『みんな』で作られた。歴史すらも投稿を募る参加型で、当時、女性投稿者の書いた日本の通史がベストセラーになりました。『協働』は『みんなで創造的なことや生活の工夫をする』という意味で使われ、自発的に演劇や人形劇を作り、詩などの朗読も推奨されました。『創造への参加』で自らも動員される。石川達三の『日常の戦ひ』という映画にもなった新聞小説では、隣組の常会で民主的な『話し合い』によって国策協力に参加していく様が描かれました」
「こうして改めて当時を振り返ると、プロパガンダや参加型ファシズムは、現代のSNSにおける集合知の作られ方に似ていることがよく分かるでしょう。SNSという投稿ツールは参加型ファシズムとの整合性が高いのですよ」
――男性たちが戦場に送られていたことを考えると、『協働』の担い手は女性たちも多かったのでしょうか。
「女性が果たす役割が大きかったことは明らかです。翼賛体制では、『隣組』とは別に職業ごとの『職域』が『内面からの参与』の場として推進されましたが、『主婦』も『職域』として認められました。『主婦』が銃後、つまり戦争準備態勢の担い手となって『参加』することは婦人解放の流れと相応の整合性があり、戦後の印象ではリベラルに見える多くの婦人運動家が関与しました。政治の側が婦人雑誌の女性評論家の影響力を評価した報告書も残っています。婦人雑誌は一般の女性たちが戦時下の新しい日常に参加する場でもあり、そこで主婦の動員、生活の動員のようなことが行われた」
「他方、若い女性の『女性性』は、前線にいる兵士の暗黙の花嫁や恋人として機能しました。それは出征した兵士への慰問文などに露骨です。僕は『隣組』や『職域』から発信された慰問文が少し気になって調べ始めていますが、電話交換所の男性職員が出征する際、交換手の女性職員たちが慰問として作成した寄せ書きを見たことがあります。少女画が添えられ、男性アイドルに向けたものかと見紛うものでした。これから殺し合いに行く彼と、その寄せ書き。前線と銃後の関係が明確に表れています」
「戦時下には、物々しい『男文字』によるプロパガンダだけでなく、『女文字』のプロパガンダがあった。以前僕は『「暮し」のファシズム』という本で、『女文字』を駆使した男性側を問題にしました。ですが、当然、女性たちもまた、その積極的な使い手でした」
――当時の人々は時局にあらがえなかった、ということではないのでしょうか。
「今も『同調圧力』という言葉は、流されることへの言い訳でしょう。そして同調圧力に流される人は同時に、同調圧力の担い手でもある。『あの時は仕方なかった』という言い訳を、僕は認めません」
――戦場のニュースに心を動かされるのも私たちの問題だ、ということになるのでしょうか。
「戦争のニュースに『感動』や『悲劇』が求められるのは、視聴者が欲望するからです。まるでスポーツ中継のように、それらが本当の戦争に求められて報道が応えることほど、無責任で始末に負えないものはない。涙を流す母親を見てかわいそうだと思うのも、ゼレンスキー大統領の演説に胸が高鳴るのも、ロシアと名のつくものはロシア料理まで不快なのも、『内面からの参与』つまり『感情』を動員されているということでしょう」
「戦争自体が悪」と誰も言えなくなった 「だからと言って、僕は、ウクライナを支援するなとか、ウクライナの民衆を見捨てろとか、ロシア頑張れとか、一言も言っているわけではありません。ただ、同じ『子どもが亡くなって悲しんでいる母親』を見た時、それがウクライナかロシアかで、報じられ方や受け手の感じ方が異なるわけです。焼けたロシアの戦車を見た時、私たちは爆破した民衆を賛美し、戦車の中にいたであろうロシア兵への想像は及ばない。ウクライナとロシアのどちらが正しいか悪かでなく、『戦争』そのものが『正しくない』『悪』だという思考が停止している。今回の戦争で『戦争自体が悪なのだ』と誰もいえなくなっている」
――今回は明らかに他国の領土に侵略したロシアが悪いから、ではないですか?
「それを『ロシアがしたから』でなく『侵略戦争』が『悪』だというならわかります。しかし、日本の戦争を『侵略戦争』と表現することに懐疑的な人々がためらいもなく『ロシアの侵略戦争』とだけ言い切れるのは、奇妙ではないでしょうか。例えば、『ウクライナのナチ化からの解放』というロジックで『侵略』したプーチン大統領は正しくないとすれば、『アジアの解放』と言って『侵略』した、かつての私たちの国の戦争とも重なるロジックです。しかし、僕が『日本の立ち位置は侵略されたウクライナでなく侵略したロシアに重ね合わせてしかるべきだ』と発言したら、猛反発がありました。『親ロシア派』と敵視され、『たとえそうであっても、今はそういうことを言うべきではない』と批判された。『親日』『反日』という世の中にあふれている敵・味方の区分が、『親ウクライナ』『親ロシア』にそっくりスライドした感じです」
――「またあの戦争を持ち出すのか」という批判があります。
「『かつての戦争』に重ね合わせるのがそんなに不愉快なら、せめてイラク戦争を思いおこしてほしい。大量破壊兵器を持つことを根拠にイラクに『侵攻』し崩壊させた。しかし、大量破壊兵器は出てこなかった。根拠に欠く『侵攻』だったわけです。そのアメリカを日本は支持した。今のロシアがしていることは、当時のアメリカと同じです。かつての日本もアメリカも、今のロシアも正しくない。そのことを確認して初めて『戦争は正しくない』という基本原則が復興できる」
再呪術化した世界 「僕は当時、イラク戦争の報道について『大衆の欲望に従順に、ハリウッド映画のシナリオの文法のように展開した』と指摘しました。それは誰かが操作したというより、報道が大衆の期待に応えてニュースを流せばそうなってしまう、ということです。そういえば、当時、米国のニュースが多国籍軍を『クルセイダーズ(十字軍)』と呼んだのが印象的で、世界が再呪術化、再神話化されてしまったと感じました」
――「再呪術化」ですか?
「近代というのは、『脱呪術化』、つまり物事を科学的な合理性で説明しようとする社会です。戦争も、善と悪の単純な二項対立でなく、もっと複雑で、それを検証できるのは、社会科学、歴史学、人文学などを含めた広義の科学であるということが前提だったはずです。その意味で『脱呪術化・脱神話化』したはずなのに、『十字軍』と言ってしまった。その瞬間、『神話』に戻ってしまい、大量破壊兵器の有無さえどうでもよくなる。当時、小泉純一郎首相が、フセインが見つからないことと大量破壊兵器が見つからないことを重ね合わせた冗談を言い、国会が爆笑に包まれたことがありました。善悪を単純化すれば思考停止できるいい事例です」
――今の状況は、イラク戦争当時と重なる、と?
「イラク戦争でもかつての戦争でもいいんですよ。情報が限られプロパガンダが錯綜し、知らないうちに感情に動かされてしまうから、『今』への参照系として『過去』、つまり『歴史』を持ち出すことが必要です」
「今、ウクライナの戦争は、『あの戦争』がもたらした戦後的な価値観を懐疑し、現在の日本の安全保障や憲法を否定する文脈で使われている。僕はそのことを懐疑したい。『あの戦争』の検証を怠り続け、その清算のためにウクライナ戦争に便乗していないか。『感情』に自らを動員したまま『改憲』や今後の安全保障についての判断をしていないか。つまり、『戦争』に対する態度を民主主義システムのもとで民意が選択することに、もう少し冷静であるべきだということを言いたいのです。『かつての戦争』は、男性のみとはいえ普通選挙で選ばれた政権が舵をとって進んで行った先にあった、有権者の選んだ戦争でもあったのですから」
「今唯一できる冷静な態度とは、過去の戦争における同様の局面や場所で人々が何をしたのか、そして現在の自分たちはその時でいえばどこに位置づけられるのか、を検証することでしょう。例えば、漫画の作り手である僕は、だからこそ戦時下の漫画家たちが何をしたか、それを糾弾するのではなく、実際に調べ自問自答もしています。歴史に照らし合わせること、あの戦争に照らし合わせることが今回ほど適切なことはないはずです」(聞き手・田中聡子)
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1958年生まれ。国際日本文化研究センター教授。近著に「大東亜共栄圏のクールジャパン」。 |