酒田は日中は30℃越えですが、朝晩はやっと涼しくなってきました。リスたちは「秋だ!」というスイッチが入ったようで、クルミの実を木からもぎ取って、地中に埋める様子が見られるようになりました。雪が深く積もった去年の冬の教訓として、地中ではない、たとえば木の穴とか枝の根元などにも貯蔵しないとまたパニックになるのにと、ちょっと心配しています。去年は、例年はあまり食べない松の実の食痕も琢さん見つけました。あの「エビフライ」のようやつです。
朝日のエノコログサ
食事中にフリーズしたリス
朝日を浴びるリス
ところで、最近ちょっと気になることがあったので書いてみます。
2011年の東日本大震災以後、準国歌のように歌われることが多くなった「ふるさと」の歌。「うさぎ追いしあの山……」のあの歌ですね。合唱祭などでも、合同ステージで歌われることが多くなりました。
ある合唱の集いで、この歌の歌詞の一部をウクライナ語で歌うというのです。私はこれを聞いて、なぜか違和感を抱いてしまいました。なぜだろう?ロシアの一方的な侵攻を受けて、果敢に闘っているウクライナへの共感と連帯を表すものとして、慣れない日本に避難してきたウクライナの人々に寄り添う気持ちの表明として、素直に肯定できないのはどうしてなのか?
一つは、それは自己満足なだけではないのかと感じたのです。私がもしウクライナ人だとしたら、へそ曲がりな私は、そんな形ばかりの同情など要らないと思うかもしれません。私たちの怒りや悲しみ、苦しみがどれほどわかるというのか、と。
もう一つは、これを学校の教室に置きかえてみたら、わかっていただけるかもしれません。
教室で、今ウクライナで起こっていることを学びます。するとだれかが「ふるさと」をウクライナ語で歌って、共感の気持ちを表そう」と提案しました。それが多くの賛成を得ました。なんと心の優しい子どもたちだ!と担任は鼻高々です。
でも、実はクラスの中にロシア人の子が一人いたとしたらどうでしょうか? 彼(彼女)には何の罪も責任もありません。でも母国のウクライナ侵攻について一方的に責められていると感じるでしょう。実際にいやがらせを受けるかもしれません。
逆に同級生は心優しい子たちで、ロシア人の子に同情しているのかもしれません。でもウクライナ語で歌うということが、ロシアの子にとってはひどく残酷なことになるとは思い及ばないだけなのです。それでも彼(彼女)はひどく傷つくでしょう。
合唱の集いを主催する人たちが、どこまでその影響を想定し、配慮したのだろうか?現に、在日ロシア人が、プーチンのウクライナ侵攻後、非難や嫌がらせを受けていると聞きます。もともと日本にいたウクライナ人は、ウクライナがかつてはロシアの一部だったことから、自らをロシア人と名のっていた例もあります。あるいは周囲からロシア人として知られ、迫害を受ける例もあると聞きます。
ウクライナ語で歌うという「善意」が及ぼすかもしれない影響を、どれほど考慮したのでしょうか?
もちろん一跋渉団が内輪で行うことならば、問題はないでしょうが、多岐の事情も把握していない合同合唱で、不特定の聴衆の前で披露することだからこそ、慎重な配慮が必要だと思うのです。