令和4年10月3日
早稲田大学春秋会事務局
会員の皆さま 10月に入りました。ようやくコロナウイルス感染症対応、いわゆるWithコロナと向き合う環境や対応方法が整いはじめました。後述いたしますが、9月20日に大学及び校友会から発表されました当面の校友会・稲門会活動についてのお知らせにおいても、9月21日以降は立食形式を除きますが、現役学生や大学関係者との飲食を伴う会合や懇親会が解禁されることとなりました。この間、様々な方針発表等を待ち、三役会議の日程調整問題も生じたため、春秋会だよりの発行が遅れ10月発行になりましたことをお詫び致します。なお、2022年内については、コロナ感染症の動向を注視することに加え、10月23日に開催される稲門祭についてもキャンパス内は飲食禁止の方針であること等より、例年予定される秋季のイベントは引続き中止することと致しました。会員の皆さまの中には、有志で東京六大学野球の秋の早慶戦や関東大学ラグビーの観戦応援等に出かける方もいらっしゃるかと思いますが、くれぐれもご自愛ください。
2023新春のつどいは開催する方向で検討準備をいたしますが、12月末までに発表される大学および校友会の方針決定と諸情勢を見ながら最終決定したいと存じます。ワクチン接種が更に進み、運営方法に工夫しながらの開催となることが想定されますが、例年どおりの1月開催にこだわらず2月上旬まで視野に入れて検討を進めて参ります。コロナウイルス感染症対策が続き、体調管理等大変かと存じますが、どうぞ会員の皆さまにおかれましては御自愛いただき、皆さまと参集できる時を引続き待ちたいと思います。会長代行 高原 孝
(ご参考までに令和4年9月20日に校友宛に配信されたメールを抜粋掲載します。)
当面の校友会・稲門会活動につきまして(9 月 20 日更新)平素より大学ならびに校友会の活動に格別のご理解とご協力を賜り 厚く御礼申し上げます。さて、新型コロナウイルスの感染状況において国内の近況や学内の制限緩和を踏まえ、校友会・稲門会活動においても現在の条件を緩和し、 9 月 21 日(水)以降は、現役学生や大学関係者を含めた飲食を伴う会合や懇親会も実施可といたします。ただし、立食形式による会食・懇親会には現役学生・大学関係者は参加不可となります。 実施に当っては国や各自治体からの指針等を遵守し、感染対策の徹底をお願いするとともに、対面活動に不安がある場合は決して無理をなさらないようにして下さい。 特に大学から通知されている以下の内容を遵守下さいますようお願いいたします。
<大学からの通知>
●会食(立食形式以外)は以下の感染対策を遵守することにより可能とする。①会話のときは特段の事情がない限り不織布マスクを使用する。②密を避け、食事の時間はできるだけ短時間となるよう努める。③手指の消毒を徹底する。④自治体の認証を取得した飲食店を可能な限り利用し、飲食店が定めた感染予防ルールに従う。⑤主催者は参加者を把握するなど、感染者が発生した際に連絡可能な状態を整える。
●上記の会食については、今後感染が再拡大した場合は、再度制限を行うことを検討する。
【懇親会等を行う場合の望ましい実施例】 食事の場面とマスクをつけて会話・交流をする場面を明確に分ける。また飲み物の注ぎ合いを控えるなど、飛沫飛散下の飲食とならない工夫をする。 なお今後、感染状況悪化などの変化が生じた場合には、上記方針を変更する可能性 があります。その際には、校友会ホームページ等で改めてお知らせいたします。 また10 月23日(日)に予定しております「2022年度ホームカミングデー」と「2022 稲門祭」につきましては、当初の予定通りキャンパス内において飲食はできませんが、 大学周辺商店街(W 商連)や早稲田大学生協などにも御協力いただき、対面とオンラインの併用による開催を目指して準備を進めております。皆様のご来場をお待ちしています。校友会・稲門会活動については、これまでの基本方針に変更はございませんが、念のため【別紙】として次頁以降に再掲いたします。校友の皆様におかれましては、どうか引き続きの感染対策と体調管理にお努めいただきながら、校友会・稲門会活動をお楽しみいただければと存じます。 引き続きご理解とご協力を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。
2022年9月20日 早稲田大学総長室校友課/校友会事務局 TEL.03-3202-8040、
FAX.03-3202-8129 Mail:tomonkai@list.waseda.jp
【別紙】<留意事項>①「緊急事態宣言」が発出された場合、これまでと同様に対象地域・適用期間中については、対面での校友会・稲門会活動は全面的にお控え下さいますようお願いいたします。②「まん延防止等重点措置」が適用された場合、対象の地域・期間内においても校友会・稲門会活動を対面で行うことは可能ですが、その際は十分な感染対策をお願いいたします。飲食を伴う懇親会等は是非ともお控え下さい。③「緊急事態宣言」または「まん延防止等重点措置」が発出された場合には、どちらも不要不急の外出移動や都道府県をまたぐ移動を控えるよう要請されることから、少なくともその対象地域を発着とする大学関係者の出張については中止とさせていただきます。その場合に、オンラインでの開催を行うかどうか(総長をはじめ大学関係者はオンライン出席)について、各支部・稲門会であらかじめご検討いただけましたら幸いです。この点につきましては、アンケート等にて個別にご相談をさせていただきます。
~第130回秋季大会は昨年に続き中止いたします~2022年9月20日付の早稲田大学および早稲田大学校友会の方針が発表されましたが、発表から間もないこともあり、第130回秋季大会については残念ではありますが、開催を中止いたします。
第129回総会の承認事項であります決算報告については本号にてお諮りいたします。本件に関するお問い合わせは春秋会事務局までお願い申し上げます。
~2023新春の集いは情勢を考慮しつつ開催検討いたします~年内における会合やイベントは自粛方針となりますが、年明けにつきましては2023新春の集いの開催について会員の皆さまに御案内する予定です。なお、早稲田大学および早稲田大学校友会の方針の今後の発表によっては、通常の春秋会だよりの発行の時期とは異なり2023年に入ってからのお知らせになること、また開催を見送る可能性があることにつき、ご了承ください。
~お知らせ・秋の恒例行事も中止いたします~春季東京六大学野球・早慶戦の応援は中止いたしました。誠に残念ではありますが、秋の墓参会、早稲田大学出陣学徒の会・献花式、中野正剛先生・祥月命日墓参、秋季東京六大学野球・早慶戦の応援、関東大学ラグビー・早慶戦の応援は中止といたします。
~大河ドラマ「鎌倉殿の13人衆」を視聴して思うこと~(寄稿)第一に早稲田出身の歴史作家井沢元彦氏(1977年法学部卒)の提唱する「資料第一主義から脱却し論理的因果関係でとらえる史観」が相当程度反映されていること。具体的には平家物語的「源平抗争史観」ではなく、坂東武装農業経営者連合による大和朝廷中央集権支配からの独立そして対立運動としての史観であることは評価に値する。
第二に従来の「頼朝伝」「義経伝」「清盛伝」ではなく、「13人衆」という武士団を俯瞰的に照準するのでこの時代が立体的に把握できること。従来の大河ドラマで良くあった「判官びいき」による「悲劇のヒーロー義経」ではなく、「軍事・軍略の天才にして救いがたい政治オンチ」の武将として表裏両面から義経を描いていることは秀逸である。
第三に「源氏、陸軍、国内派、早稲田」VS「平家、海軍、国際派、慶應」という母集団どうしの対比を改めて思う。前者は「内部対立・殺し合い」後者は「内部癒着・かばい合い」の歴史であった。源平合戦ではなく実は「源源合戦」すなわち源氏同士が殺し合ったというのが中世から鎌倉時代の歴史である。陸軍然り、国内派然りそして一匹狼の多い早稲田もなんと内ゲバの多かったことか。最近では早慶両校が共に都会派的傾向、国際派傾向が強まり、「早慶両校の校風接近」もあって、「地域・職場・海外各国稲門会内お家騒動」が寡聞であることはgood なのかbadなのかこれは問題であろう。麗しき協調路線を重んじるべきか弁証法的対立が生む真理の発見を志向するべきか?
結局のところは、見解の対立を人格的抗争に転化させない叡智・工夫により、天下国家論等を談論風発し、進取の精神と相互尊重の美風を是非継承されることを強く望む。徒然なるままに大河ドラマの録画を観ながら、思いつくままに記した次第。 1979年法学部卒 (武蔵野稲門会常任幹事)(村山 豊記)
~太平洋戦争で向き合った~(寄稿)佐賀藩英語塾「致遠館」校長ギド・フルベッキ先生と教え子江副廉蔵(えぞえれんぞう)の子孫
早稲田大学百周年史の記述では、<フルベッキなくして大隈なし、大隈なくして早稲田大学なし>としてフルベッキを建学の祖の一人と認めている。オランダ生まれのフルベッキは渡米後、宣教師となり1859年に来日した。然し当時の長崎では開国後もキリシタン禁制であり宣教師活動ができず、私塾で英語などを教えながら生計を立てていた。1861~1862年頃には佐賀藩藩士であった副島種臣(そえじまたねおみ)と大隈重信もフルベッキから英語の講義を受け、教材にバイブルやジェファーソンの米合衆国独立宣言文を使用したようで、大隈は後刻キリスト教に興味を抱いたと述べている。1863年の生麦事件とそれに続く薩英戦争を避け、上海に避難していたフルベッキは翌年長崎に戻り、同年(元治元年)幕府設立の長崎英語伝習所「済美館」の英語教師に招聘された。1865年佐賀藩内では設立に抵抗があった洋学派のために、長崎に副島種臣教頭、大隈重信補佐を以って「致遠館」を設立した。フルベッキと親交があった佐賀藩前藩主、鍋島直正は彼を雇用、英語、政治、経済に加えオランダで工科学校を出た経歴から工学も教えた。その生徒の一人が江副廉蔵であり、その孫が太平洋戦争末期の学徒出陣兵・江副隆愛(えぞえたかよし)である。 1869年、フルベッキは明治政府から法律改革の顧問と大学設立協力など教育改革の要請を受け上京、旧幕府開成所(開成学校)教師を務めながら大学南校と改称して教頭に任じ授業内容の変革、充実に努めた。 1868年6月、彼は大隈重信に「日本の近代化についてのブリーフ・スケッチ」を進講したが、大隈はこれを翻訳して岩倉具視に見せ、1871年11月の欧米使節団「岩倉使節団」の派遣に繋がった。1877年官職を退き、同年には勲三等旭日章を授与されている。政府との雇用契約終了後はかねてからの希望どおり宣教活動に戻り、1886年明治学院開学、1888年には理事長となる。1898年3月赤坂葵町にて逝去、明治天皇の厚意により葬儀は国葬に近いレベルで執り行われ青山墓地に埋葬された。フルベッキは7男4女をもうけたが、子弟の教育は米国で行う考えから長崎生まれの長男ウイリアムを17歳でカリフォルニアに送り出した。彼は軍隊勤務、事業の変遷を重ねながらやがてニューヨークに移り、セントジョーンズ・マンリアス・ミリタリー・スクール校長となり結婚して3人の息子をもうけるがこの内の一人、三男ウイリアム・ジョーダンは太平洋戦争に出征して日本軍と闘うことになる。
ギド・フルベッキ(グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベッキ)略歴
~オランダに生まれアメリカ合衆国へそして我が国へ渡来~1830 オランダ、ユトレヒト・ザイスト生まれ キリスト教モラビア派で洗礼
1852 9月、渡米 ウイスコンシン州・造船工場で働く
1853 ニューヨーク州⇒アーカーソン州・ミシシッピー川橋梁建設に従事
1854 夏、コレラ罹病を機に宣教師を志望
1855 ニューヨーク州オーバン神学校入学
1859 同、神学校卒業 3月米国オランダ改革派教会宣教師
4月、マリア・マンヨンと結婚 5月サプライズ号でニューヨーク出航
11月、同僚サミュエル・R・ブラウン、ダン・B・シモンズと共に上海経由来日
ブラウンとシモンズは先に神奈川へ上陸
11月、フルベッキは長崎に単身で上陸
12月、マリアを上海より呼び寄せ
1860 1月、長女、エンマ・ジャポニカ誕生するも一週間で夭折
~キリシタン禁制の高札~1861‐1862 キリスト教宣布できず、私塾で英語教師、佐賀藩、副島種臣、大隈重信が英語講義を受ける。自宅で聖書バイブルクラス開講
1863(文久3年)横浜・生麦事件発生。薩英戦争勃発により一時上海に避難
1864 長崎に戻り、「済美館」(1863年幕府設立の長崎英語伝習所、洋学所、広運館ともいう)
に雇用される。生徒に何札之、平井希昌、大山巌)フルベッキ集合写真はこの頃?
1865(慶應元年)長崎に佐賀藩が洋学派の為に「致遠館」に開設。舎長・副島種臣、補佐・大隈
重信。親交ある鍋島直正から校長として招聘され、〔済美館〕の教師と兼務。
~フルベッキの生徒たち~ 「済美館」「致遠館」の教えを受けた者
相良知安(弘庵)東京大学医学部の前身「大学東校」にドイツ医学採用。
山口尚芳 東京大学法学部・文学部の前身「開成学校」教頭にフルベッキを招請、欧米視察「岩倉使節団」副使。外交官。
小出千之助 万延元年遣米使節随員・通訳
石丸安世 工部省・造幣局を担当
他に 前島密、陸奥宗光、安保清康、高峰譲吉(加賀藩)
1868(明治元年)開成学校(旧幕府開成所)教師。
1868 6月、大隈重信に「日本の近代化についての進言」ブリーフ・スケッチ提案
大隈は翻訳書を岩倉具視に提出
1869 2月、明治政府より大学設立のため出仕要請を受け上京
12月、開成学校を「大学南校」と改称。
1870/10~1873 「大学南校」教頭(1873開成学校と再改称)
「大学南校」時代の生徒に高橋是清(仙台藩士)
1871 11月、欧米視察のための使節団「岩倉使節団」派遣。
1877(明治10年47歳)9月、官職を辞す 勲三等旭日章を授与
~念願だった宣教活動再開~1878 7月 米国へ一時帰国
1879 宣教師として再来日
1886(明治19年)明治学院開学、理事
1887 明治学院神学部教授
1888 明治学院理事長
1898(明治31年)3月10日 赤坂葵町自宅にて死去 享年68歳
3月13日 芝日本基督教会にて葬儀、青山墓地に埋葬
~日米友好の先頭に立った長男ウイリアム・フルベッキ~1909(明治42年)秋、アメリカ合衆国商業会議所の招待を受け、東京、大阪等6大都市の商業会議所、民間人51名の団体が渋沢栄一を団長として訪米し3ヶ月にわたり主要都市を訪問した。明治天皇と親しく大の親日家であったW・H・タフト大統領もミネソタで歓迎。当時問題となっていた日本移民排斥運動の中、日米貿易の新時代がスタートした。経済使節団一行をニューヨーク州シラキュース市の駅頭で流暢な日本語で出迎えたのがフルベッキの長男、マンリアス・ミリタリースクール校長のウイリアムであった。歓迎晩さん会の後別室で日露戦争の映画を鑑賞した渋沢栄一は、学生に交じって白馬に乗って日本軍を指揮していたのがウイリアムだったのを見て驚いたと書き記している。当時のミリタリースクールには江副廉蔵の息子、隆一が留学していた。
21年後の1930(昭和5年)日本から経済使節団を迎える直前、ウイリアムは帰らぬ人となったが、校長となって42年間その優れた教育と人格で多くの有望な人材を輩出した彼を知るニューヨーク州知事フランクリン・D・ルーズベルト(第32代大統領)は半旗を掲げてその死を惜しんだ。亡骸はスクール内の日本庭園に埋葬された。ウイリアム(愛称ウイリー)は17歳まで長崎で育った。友人は武士の子息たちで武士道、礼儀を自然に身に付け日本語の会話、読み書きに不自由はなく剣道には打ち込んでいたという。ミリタリースクールでは剣道が教科に取り上げられた。 以上
大隈重信・略歴(大隈重信年譜より)1838(天保9年)2月16日 佐賀、会所小路にて誕生、父 大隈信保 母 三井子
1844(弘化元年)6歳 藩校弘道館 外生寮入寮
1848(嘉永元年)10歳 外生寮「会読」に進級
1850(嘉永3年) 12歳 父信保死去
1853(嘉永6年) 15歳 1月 弘道館 内生寮入寮
1854(安政元年)16歳 5月 義祭同盟に加入
1855(安政2年) 17歳 6月 弘道館 南北騒動首謀者として退学処分
1856(安政3年) 18歳 蘭学寮入寮 国学を枝吉神陽に学ぶ
1861(文久元年)23歳 蘭学塾と弘道館合併、重信教授になる
藩主鍋島直正にオランダ憲法進講
1864(元治元年)26歳 代品方として長崎に赴任
1865(慶應元年)27歳 英学塾「致遠館」長崎に開学
1867(慶應3年) 29歳 3月 副島種臣と共に脱藩し徳永慶喜に大政奉還を薦めるため京都へ赴くも5月に藩史に捕縛され佐賀へ送り返され1ヶ月謹慎処分
10月 英国船で横浜に視察旅行 鍋島閑曳に時局解説
1868(明治元年)30歳 3月 微士として明治政府に登用され「外国事務局判事」として長崎に赴任
4月 キリスト教信者処分問題で英国公使パークスと論争し名を上げる
12月 「外国官副知事」に任官
1869(明治2年) 31歳 2月 三枝七四郎娘、綾子と結構(再婚)
3月 「会計官副知事」を兼務
4月 築地に家を新築
7月 「大蔵大輔」に任官
1870(明治3年) 32歳 9月 「参議」
1872(明治5年) 35歳 6月 「参議」を辞任、7月「参議」再任
1873(明治6年) 35歳 10月 「大蔵卿」を兼務
1880(明治13年) 42歳 2月 大蔵卿兼務免任、「参議」専任
1881(明治14年) 43歳 3月 国会開設問題について伊藤博文と意見対立
7月 明治天皇東北巡行に供参
10月 政変により「参議」を辞任
1882(明治15年) 44歳 3月 「立憲改進党」を結成し総理に就任
10月 東京専門学校を開校(のちの早稲田大学)
1888(明治21年) 50歳 「外務大臣」に就任し通商条約改定に取り組む
1889(明治22年) 51歳 10月 玄洋社社員 来島恒喜に爆弾を投ぜられて右足を切断
12月 外務大臣辞任
1895(明治28年) 57歳 1月 母三井子死去
1896(明治29年) 58歳 9月 外務大臣就任(1897年12月辞任)
1898(明治31年) 60歳 6月 「憲政党」結成、第一次大隈内閣組閣
11月 内閣解散
1901(明治34年) 63歳 4月 東京専門学校改め早稲田大学となる
1902(明治35年) 64歳 10月 早稲田大学20周年記念式典に臨む
1914(明治40年) 69歳 1月 憲政本党総理辞任
4月 早稲田大学総長に就任
1913(大正2年) 75歳 10月 早稲田大学30周年記念式典に臨む
1914(大正3年) 76歳 4月 第二次大隈内閣組閣
1916(大正5年) 78歳 10月 第二次大隈内閣解散
1922(大正11年) 84歳 1月10日 死去
1月17日 日比谷にて「国民葬」
(諸江昭雄記)
~会員の近況~コロナ禍で過ごされている会員皆様の近況について、メールアドレスをいただいている会員を対象に原稿を募集しました。(敬称略あ順)
2020年春に緊急事態宣言が発令されて2年半になる。その間、春秋会も全ての行事がストップした。皆さんの顔を見たい、校歌を歌いたい、墓参会もしたい。ずっと思っていた。9月20日、校友会からお知らせが入った。待ちに待った「行事自粛の全面解除」。校友会のホームページを開けば皆さんも見られます。この秋以降は大隈会館、楠亭、大隈タワー等、大学の施設には予約が殺到するのだろう。しばらくは予約をとるのは難しいかもしれない。でもなんとか、新春のつどいはやりたい。近いうち、役員会を開き、今後の活動方針を話し合い、会員の皆さんに報告できるようにしたいと思っております。(大石和礼記)
事象や意思を文面で正しく伝えることは難しい。伝えたいことを相手に理解していただくことは更に難しい。対面でのコミュニケーションの重要性はいつの時間も相手が誰であっても変わらないものと感じます。(齋藤 徹也記)
一般社団法人ディレクトフォース観光立国研究会から『日本再発見紀行(第3集)』(幻冬舎)が発刊された(2022年5月26日)。この中で、新宮は、「東京都 日本近代学問発祥の地千代田区」と題して記事を執筆している。以前、一般社団法人ディレクトフォース観光立国研究会から『日本再発見紀行(第二集)』(文芸社)が発刊された(2019年4月15日)際には、新宮は、「島根県:出雲大社など古代文物の集積地 簸川平野」と題して記事を執筆している。なお、新宮の出身地は島根県出雲市である。また、住まいと環境東北フォーラムから『サステナブルな住まいを目指してープロフェッショナルからの提言Part 2ー』(技報堂出版)が発刊された(2022年6月1日)。この中で、新宮は、「災害に強いシェル構造の魅力」と題して記事を執筆している。 日本大学名誉教授(新宮 清志記)
~令和4年度年会費納入者~令和4年4月1日から9月30日の間に納入してくださった会員です。(敬称略あ順)
青葉ひかる、浅井潤、浅田宗良、阿部多恵、甘利廣、雨宮正英
安藤良男、石澤一郎、石田明人、石田菊香、石田誠、伊藤威知郎
猪瀬敏彦、今井信夫、岩間正春、海老沢勝二、大石和礼、大隅乙郎
大野正道、大村真也、小野沢純一、小野寺敏、笠間裕、片山留偉
勝山宏則、加藤暢之、加藤善髙、菊地一郎、小林聖子、小針侑起
齋藤徹也、坂木文雄、柴田親宏、島崎健司、島田實、新宮清志
鈴木昱生、鈴木宏治、鈴木敏雄、鈴木康之、関廣義、高田宜美
高原孝、瀧口順子、武田淳史、田坂忠俊、土倉享一、手塚善雄
寺﨑敬市、遠井信久、中尾公一、中川幹雄、中島久子、中島ヨシ子
中西剛、南雲靖夫、名塚章一、並木隆史、成瀬晴代、西岡雅仁
野島正憲、野中信男、長谷川弘、幡野日出夫、馬場正彦、原田種久
廣本敦、藤井裕久、古川淳一、真砂太郎、松崎淳、松本賢吾
南隆、南丘喜八郎、三室直人、宮沢昭四郎、村原正隆、守屋孝
諸江昭雄、谷中竜雄、山口桂子、山口光朗、山平匡人、横山重文
渡部眞之助~御冥福をお祈り申し上げます~
(敬称略あ順)中村 哲三、長谷川 弘、藤井 裕久
~寄付の御礼~
下記の方から寄付をいただきました。ありがとうございました。
(敬称略あ順)南丘喜八郎
~第129回総会書面報告事項について~
新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、第129回総会の開催を書面開催にいたしました。今回ご案内のとおり、第130回秋季大会の開催も中止とし、本年のイベント開催が出来ないため、総会報告事項である、会計報告については、書面で同封させていただいております。同封の会計報告をご高覧いただき、内容につき、ご質問等ある会員の方は、お手数をおかけしますが、書面にて事務局までお送りいただきますようお願い申し上げます。 以 上