一筆啓上つかまつり候
ホオジロです。
さて、先日の朝日新聞に「部活動指導 縮小の動きに疑問」と題して、「部活動の指導を負担に感じる教員もいますが、……指導に前向きな教員はたくさんいます。」という投書が載った。現役の中学校教員の意見である。
確認しておくが、部活の指導を学校外に移すという動きは、教員が過剰に多忙なことが発端である。そもそも教育公務員には部活の指導を含めて時間外手当がない。そのかわり教員は時間では計れない仕事が山積する特殊な仕事だとして、月約8時間分の時間外手当分に相当する4%を給与に上乗せすると、給特法で定めている。
しかし、教員の勤務は、休憩がとれない、定時で終えられない、残業、休日の部活など、到底4%に納まるものではない。かつては、夏休みなどの長期休業中は、研修という名目で出勤が免除されたものだが、今では、なんの仕事もないのに出勤を迫られるという不条理な実態もある。(誤解がないように詳しく言うと、現在では図書館であろうと旅先であろうと研修目的なら、長期休業中に出勤しなくてもよいが、事後、詳しい『研修』報告を提出しなければならない。その煩わしさを逃れるためにだけ、出勤する場合があるということだ。あたりまえ? いや教員に教養は必須だが、読書してもその報告が必要だなど、思想調査すれすれではないだろうか?)
さて、冒頭の投書だが、部活の指導は教員の義務ではない。顧問になるのは自由意志であり、断ることもできる。ぼくの場合、初任の時に「指導できる種目」として、柔道(白帯だが)と合唱と答えたのだが、柔道部はないし、合唱部は女子だけで、すでに熱心な指導者がいるからということでなんの顧問にもつかなかった。それ以来、退職までほとんど部活の顧問になったことがないのだ。
新しい職場に赴任した時そう言うと、「ずるい」という声があがることがあった。それは、部活の顧問になることが義務だと思っている、あるいは義務ではないが教員としてあたりまえだと思っている、あるいは「「出世のためには我慢すべきだ」と思っている教員がなんと多いことか、ということだ。現に、その職場では、教員は顧問になることが義務とされていた。もちろんこれは法に反する。
そして、冒頭の投書のような考え方をする部活顧問は、同僚の中には幼い子どもを抱えているとか、父親の役割を放棄して土日も家庭にいないことで家庭が崩壊しかかっている場合があるなど、想像さえできないのかもしれない。
生活のために日雇い仕事をしていた知人のミュージシャンは、「日雇いの人たちには暗黙のルールがある。それは、自分だけ急いで仕事を終わらせないということだ。遅れてしまう人は、明日は雇ってもらえないかもしれない。明日は我が身と考えて、連帯して遅い人に合わせることが大事なんだよ。」と教えてくれた。
もちろん、部活の熱心な指導者すべてがいい加減な人間だというつもりはない。だが、グラウンドの片隅で腕を組んで睨みをきかせるだけで、子どもたちが唯々諾々と指示に従う快感から、やめられなくなっている人もいるのではないだろうか。
本来の義務である教科指導、学級指導はどうだろうか。試験の作問に、過去問をコピーして塾で発見され、生徒から抗議を受けたりしてはいないか。部活のようにひと睨みで子どもを黙らせ、子どもが怖がって相談できなくなってはいないか。
子ども側の問題もある。
ある職場で、朝からあくびを繰り返し、授業中に机に伏せて眠ってしまう生徒がいた。それを繰り返すので、少しきつく叱った。すると彼女は。
「朝練なんだからしかたないでしょ!」と叫んでまた伏せてしまった。周りの子に聞くとバスケ部だと言う。そしてそれ以後も彼女の態度は改まらなかった。
「朝練で、きついことやらせすぎてるんじゃないの?」バスケの顧問がその年の新卒だったこともあって、顧問にも苦情を言ったのだが。
そんなことがあった後、数日か数週間か記憶がないのだが、彼女が自死した。原因は不明とされたが、反抗的なギラギラした眼の奥で彼女も悩んでいたのだろう。それを理解しなかった。若い顧問にはもっと強く言うべきだったし、感情的に強く叱ったぼくにも責任はあるだろう。
このケースでは、保護者から学校や顧問、授業で叱ったぼくが訴えられることはなかったが、その可能性はあったと思う。
義務ではないはずの部活指導は、実は思い責任を負っているという自覚が、苦しんでいる同僚に想像が及ばない顧問の教員にどれほど自覚されているのだろうか。