我ら放送室そだち 堤 美夫 昭和42年(1967年)卒
放送室があったのは、校庭に面した鉄筋校舎(南館)の2階です。校庭から見ると秋口には甘酸っぱい香りをだす金木犀があった昇降口の屋根の上にあたり、サッシ窓の奥に更に木製の窓ガラスが見えた部屋です。部屋の中まで入った方は少ないと思いますので、今はもう取り壊されてしまった校舎にあった我らが放送室を紹介します。 放送室は手前に調整室、そして奥にスタジオと2つに分かれていて、スタジオ内に外の音が入らないように窓は全て二重ガラスで、調整室との間にあるドアは防音のため中に畳が入った厚く重たいドアでした。そしてスタジオの壁面は音が反響しないように山谷がある布張、床は畳でその上にじゅうたんが敷かれていましたので上履きを脱いで入ります。部員たちの足の裏の水分を吸い取った重いじゅうたんを年に何回か屋上まで運び、日光消毒をして埃をたたき出したものです。 生徒会誌「足跡8号(昭和39年9月発行)」よると、放送室が改築されたのは昭和38年夏とされていますから、私は新しい放送室が出来て初の入部ということになります。そして、放送部が文化祭に初参加したのも私達が入部した昭和39年です。1年目は放送部を紹介するパネル展示とベニヤ板で作った簡易なスタジオ再現セットでとても初歩的なものでしたが、2年目からは当時大流行していたDJの生本番へ、そして地味ながら放送劇と展開していきました。文化祭最終日のハイライトはファイアーストームのフォークダンスです。放送部員はレコードプレーヤーを校庭に出して、踊りの輪に加わることもなくひたすらフォークダンスの曲を流し続けたものでした。 さて、放送部の日々の活動は昼食時間帯の音楽放送と放課後の伝達放送です。昼食時間帯の音楽放送は15分程度の番組ですが、前日に録音するため放課後は毎日録音に追われていました。これは噂話しですから気にしないでいただきたいのですが、番組の原稿が問に合わず授業中に書いていたのを度々先生に見つかり怒られた先輩もいたとか。レコードを流しているだけのような番組でも録音には1時間以上かかります。 録音中でも電話の呼び出しなど急を要する放送を優先するため、度々、録音が中断されるのです。(アナウンサーのトチリや曲出しのタイミングが合わないことが多かったからとは、□が裂けてもいえません。) 当時の流行りは、「ビートルズ」「フォーク」「エレキ」などの今では懐かしの1960年代ミュージックでしたが、鷺高では使ってよい音楽ジャンルはクラッシクからスクリーンミュージック等の軽音楽(今の軽音では ありません)までという厳しい制限があると先輩からの申し送りがある中、私達が聴きたいグレーゾーンの曲を少しでも多く流したいとの思いがありましたが、LPレコードは当時で2500円位していましたから、僅かな部の予算では買うこともできず私物を借りるなどやりくりにも苦労しました。 また、スタジオ生活では耐えることも求められました。当時の学校にはエアコンなどはありませんから、外の音が入らないように窓を閉め切ったスタジオでの夏場の極暑状態、そして、熱源といえばハンダゴテくらいしかない冬場の極寒状態を耐えるのは、やはり好きなことを仲間と楽しんでいるという充実感があったからでしょう。昼休みも放課後も放送室でいつも楽しく過ごした私達世代(昭和41年卒から昭和44年卒)は、還暦を過ぎた今でも年1回、有志で集まりグループ交際を続けています。去る、平成22年9月の文化祭の日には有志で学校にお邪魔して放送室を見させていただきました。もうすぐ壊されるというお別れの涙こそ出ませんでしたが、この部屋で先輩や後輩だちとワイワイ過ごした熱き日の思い出が甦り、この日の二次会はいつになく盛り上がりました。卒業後もこんなに永く私達を結び付けてくれている放送室にそして鷺高に感謝しています。
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