黝(あをぐろ)い民家の聚落を下にして、半天を覆う茜色に燿く鰯雲にしばし佇んだことがある。所用で山口を訪れたおり、瑠璃光寺へ参り、聚落の中を通る旧道でホテルへ帰った時のことで、もう四半世紀も前になるだろうか。
旧道には石蕗(つわぶき)が多く見られ、その花は薬師瑠璃光如来の「瑠璃光」に照らされて顕れたかに思われたのだった。
「瑠璃光や 石蕗(つわ)のかがよふ 細き径」
などと少々気障(きざ)りながらふと顧みると冒頭の光景が広がっていた。
式子(しょくし)内親王は鎌倉時代・後白河天皇の第三皇女である。幼少時より京都・鴨神社の齋院を務められ、後に四十代になって突然落飾(出家)されてしまうという方であるが、歌人としても有名である。その御歌は情緒纏綿たるものが多く、私の好きなものに
「見しことも見ぬ 行く末もかりそめの 枕にうつる幻のなか」
というのがあり、これなどは私の絵画シリーズ「蜃気楼」のようにも思われるのである。
さて突然、ここに「鰯雲」と「式子内親王」が登場するには理由(わけ)がある。
○ ○ ○ 夏のある日、信濃追分の私の処に「飲み友」のUがフラリと表れ、手にしていた一冊の紀伊国屋新書を渡されたのである。それが「式子内親王(馬場あき子著)」である。私がかねてより式子内親王の御歌が好きなのを知ってのことだろう。
表紙を開くと「呈、O大兄へ」とあり、頁をかえすと彼の手で
「鰯雲 幾たび描く夢の文字」
と記されていたのである。
著者の馬場あき子氏は私たちより約十年ほど年配ではあるが、美貌の女流歌人で、歌作の多くが世に出ている。私たちはその幾つかを眼にしているが、とりわけ私の印象に残っているものに
「生き肌や その哀しみを洗ふとき 流れてあはし三月の雪」
とのまさに女流ならではの名歌がある。
馬場あき子氏の式子研究は、皇女の生い立ち、御作のアナリーゼから定家葛(ていかかづら)との関係などと深く、決して幸せとは言えないであろう生涯とその抒情性を探った名著である。
書棚に鎮座するこの書を眼にするといつも私はUの句「鰯雲…」が聞こえるような気がするのである。
Uの「鰯雲…」は単なる写生句ではなく、情緒的な捉えがあり彼のイメージとして昇華されているのだ。つまり「鰯雲」はモデルではなく「モチーフ」になっている。
この句について巷の凡俗は「かく(・・)のが文字だから‘書’であり‘描’はおかしい…」などとつまらない詮索をするだろう。絵画において「デッサンがくるっている」というのと同じだ。そのように評する画家は少なくない。
文芸は芸術だ。芸術に於いて理屈や整合性は不要であるばかりでなく、多くは害になるだろう。絵画に於いても同様である。
文字を「描く」と記したとき、そのイメージは象形文字にまで至ったり、ここに言う「文字」とは文芸全体を意味するやも知れない…などと想ったとき広大な世界へとイメージが翻るのではないだろうか。困難なルートの岩登りで、適切な場所に一本のハーケンを打つことによって幾つかの新しいルートが開けるのだ。「描」はこの場合の一本のハーケンである。
私の今までにしたためた稚拙な素人俳句「春秋游吟」を纏めたところ、概ね900句になっていたが、Uの
「鰯雲 幾たび描く夢の文字」
を超える句は未だ無い。偏に脱帽するのみである。
此処でふとペンを置き眼を窓に向ければ、暮れ急ぐ冬の陽は今日ひと日の最後の燿きを鰯雲に映していたのであった。
鰯雲:絹積雲、鱗雲、鯖雲等の別名も。極めてロマンチックで美しい。高度があるので各雲の粒は小さく見えるが鱗や鰯どころではなく、鯨より大きく、全てが氷晶である。尚、羊雲は高積雲でやや高度が低く、粒は大きく見える。
石蕗:「つわ」とも。常緑多年草で、温暖な地の初冬を飾る菊科。辺り一面に黄花が咲き染めると、恰も瑠璃光を放たれたかに明るい。もっとも瑠璃とはラビスラズリ(ウルトラマリン、アフガニスタン産)と言う宝石だが。
薬師瑠璃光如来:一般には「薬師如来」
衆生(生命あるものの全て)の病や苦を除き安楽を得させる仏。その多くは「薬壷(やっこ)」を持たれる。別に「医王」と称される場合もある。日光菩薩…月光菩薩を脇侍とし、十二神将をこの眷属とする。