茜(あかね) ・ モノローグ
愛娘が嫁いで行ってしまった空虚感のさなかにある孤独な編集者・茜。心中の変化を辿る。 大辻 敏成 皓(しろ)き肱(かひな)を あかねに染めて 没日熄(いりひや)む 愚 聴風 「大岡 信さんってご存知でしょ。詩集見てたら大岡 信さんの詩論が付いてて、中にジャン・コクトーの言葉があってぇ、コクトーって素敵なひとよ、ベートーヴェンとバッハを比べてんだけど、なんだか難しい事仰ってるみたいだけど簡単に言うと、ベートーヴェンは曲を展開するとき飽き飽きさせる、バッハは違う。それは、エーと何だっけ、ベートーヴェンが形式の展開をするのに対してバッハは観念の展開をするからだ。たいていの人はその反対だと思ってるらしいが… とかだったと思うの。カッコ佳いわね、さすがコクトーよ」
茜はこの夏に荻窪の古書肆で手にした現代詩文庫の“大岡 信詩集”を思いだしていた。彼女には物事を観念的に捉えすぎる面があるが、女性には少ないタイプのおんなである。一概には言えないが、普通、女性は具体的な指向性が強いものだが、文芸誌の編集を長らくやって来たので言葉への傾倒が強いためかも知れない。茜は、なべての男女についてこんな風に思っているようである。 《おんなは具体的。常に土に立脚し、丁度庭園に据えられた庭石であり、男は観念的。風のよう、ある時には庭石であるおんなを取り巻いて気が付くと何処かへと吹き去って行ってしまう。をんなは取り残される、モジリアニの描いたをんな達のように》 若くして夫を見送っていると言う哀しい過去も影を落としているのかも知れない。 「わたしを風の渦に巻き込んで去ったひと、彼の形見の藍子はこの間嫁がせたし、藍子ったらそっくりなのね父親に…、茜、何人かの男・をんなのおつき合いはあったけど、みんなわたしの身体の中を通りぬけて行ってしまったわ。風ね、男の人って」 茜は愛娘(まなむすめ)を嫁がせてしまうと妙に空虚になり、近頃は孤独感一入であった。 「ベートーヴェンって青春の音楽よね、今聴くと。高校時代の白色に輝くような風景や当時のお友達なんか想い出すわ、靖夫…茜のこと好きだったのね、きっと。わたし唇だけしか赦さなかったけど、わたし、初めてのキスだったわ。あのひと急に舌なんか押し込んできてびっくりしたわ。どうしているかなアイツ。そうよ、ベートーヴェンはなかなかそう言うことを超えて中へ入れないの。何か事実、いいえ現実かしら、その呪縛に会っちゃうのよ。カルテットなんかね、立方体や直方体みたいで角が立っているのね、でもヘ長調は別と思うんだけどぉ。OP.50だったかな「ヘ長調のロマンス」や「スプリング・ソナタ」、「田園」「8番」…ん、これはシンフォニーだけど。みんなヘ長調よ。立方体も透明に溶解して、音楽の中へと誘われるの。だから茜、ヘ長調は好きよ。 ヘ長調って私達の語り言葉に近いんですって、フルートもヘ長調が吹きやすいし、わたし大好きなのフルート…、フルートってわざわざヘ長調用のキーが付いてるくらいだもん、ブリチアルディ・キーっていうんだけど、世紀末の、ったってこの間の世紀末じゃないわょ、19世紀の末よ、ヴィルトオーゾだったの、ブリチアルディは。 バッハはね、バッハの方がフレーズの繰り返しもずっと多いし繰り返しだってかなりはっきりしてるんだけど、だからね、吹いていても今やっているところ何処だっけ…なんて迷っちゃうことあるしぃ、デモネエ飽きないのよね。さすがコクトーさんね、目の付け所が佳いわ。具体的な形象を超えて、考えられた、心に想像する構築体ってなことかしら…観念なのよね。それって…。なるほど形式対観念ね、分かるような気がするわ、わたし…」 茜は片手間に知り合いに頼まれた汎美便りの編集を手がけているが、絵描きにその事について語らせたらチョットした記事になるだろうと思うのだった。 「そうだわ、今度絵描きさん何人かに集まって貰って、形式と観念をテーマに座談会でも開いたら面白い特集になるわね」 彼女は不規則な仕事の手が空くと、行きつけの珈琲店で独り考え事をするのが慣わしになっていた。心に空いた穴を埋めるには行きつけの珈琲店が最適だった。ウチに帰れば嫁いでしまった藍子の部屋がポッカリ空いた空洞に思えたが、一方珈琲店には癒されるものがあった。緩やかな音 楽があり、様々な人達が己の内面と向き合っていた。 「あの方、何考えていらっしゃるのかしら…何て言う感じなんだけど、結構寂しそうな方って多いのよね、特に他人(ひと)の横顔って孤独感があってわたしの心に響くのね。リルケだったかしら、仰ってるでしょ、“マルテの手記”で…。懐かしいな茜、彼も青春の詩人ね。 《わたしの孤独は他人(ひと)の裡(うち)の孤独を観ることによって癒されます》とか…。私達十代から二十代の頃の絶望感なんかに救いの絹索を垂れるような詩人だったわ。絹の索といえば、三月堂の、勿論東大寺のよ、三月堂の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音、佳いわねあのお顔、手にしている絹の索で衆生をお救いするんですって。なんとか勝一郎さんとか仰る評論家なんか言ってるの、“天平期の仏達は香水(こうずい)の汗を流す”ですって…チョット気障ね。香水(コウズイ)は私の付けているシャネルなんかとは違うのよ、お香を溶かし込んだ、仏様にお供えするお水。身体や伽藍を清めるのに使うの…。 それでね、ああリルケでしたわね、あのかた、愛する女性のために手折った薔薇の刺が刺さって破傷風で亡くなったというお話よ。その人に相応しい死に方ってあるのかしら。リュリっていう音楽家ご存知?その頃は、いまもそうかなあ、バレエ音楽なんかの指揮は長い棒で床を突いてリズムとってたの。みんな言うこと聞かなかったので力一杯床叩いたら自分の足の親指をつぶしちゃって破傷風で亡くなったんですって。バロック期だから17世紀よね。いやあね…」珈琲店の窓からは武蔵野の空を突くような欅がもう秋色がかっているのが望めた。珈琲店の正方形の大窓には年間を通して武蔵野の四季が映し出されるのだった。茜はその窓枠に映った男との物語など、体験を元にして書きかけたこともあったが、事実を抽象化することが出来ず、100枚ほど書いたが今は投げ出してある。 「わたしって書き始めるとどうしても具体性の向こう側に行けなくなっちゃうの、だから、だからねえバッハのように観念の構築体のような世界を書きたいんだけど駄目なのよ。質が違うのよね、きっと。でも、言葉ってそういうもの、観念の放逸っていうのかな、それが大切ね。通俗小説は別だけど。 その意味からも絵描きさんの考えをお聴きしたいわ。ああ、茜、本当独りぼっちなのよ、藍子も嫁いじゃったしぃ、恋をしたいな、わたしだって女としての命、そんなに長くないわ、こないだなんか思い当たること無いのに生理が止まったりしてんですもの、こんなこと初めて…」
茜は寂寞感に取り付かれながら、座談の企画やその人選、切り出し方などに思いを馳せていた。ややして冷めた珈琲の一口を啜ると席を立った。珈琲店を後にした彼女に、欅並木を吹き抜けてきた木枯らしが彼女の身体に男のように纏わり付いた。 「茜、恋をしたいわ…だって、だってわたし…」 一陣の木枯らしが吹きすぎると彼女は、大きく開いた黒いドレスの胸に思わず手を当てた。その皓(しろ)い肱(かいな)を硬い没日(いりひ)が一瞬茜色に染めたのだった。
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