硬質な文体に秘められたおんなの哀切が四季に鏤められ、その中で精神の深淵とも言える渕に触れ得た。
また中世文学を憧憬する著者の自己実現とうまくダブらせている。こういう人には、所謂女心のアナリーゼとともにもっともっと書いてもらいたいものだ。例えば「おんなの二十代」~「おんなの七十代、八十代」・・・というのはどうだろう。高齢化社会を迎えて「美しく老いる」指標にもなるだろう。
蘭萌える蘭萌へて蔓になぞらふ墨のゆれ 愚聴風
小夜(さや)の白磁のような白い胸から腹部へかけて、木洩れ日が文様を染め上げた。暫しの興奮覚めやらぬ汗ぱんだ肌に、春の風が静かに流れ、辺りにははつかに苔のにほひが漂っていた。
小夜の父の菩提寺は、京の西山にある。彼女は人生上に何か重要なことが起きると、父の墓参りをするのだった。小夜は小さいときから、その父に書を習い、いまでは多くの弟子を教えている。
烔(あきら)は、小夜の批評を素直に受けよ止めるためか、上達が早く、素直な筆さばきは群を抜いていた。その上、小夜には無い筆さばきは群を抜いていた。小夜には無い勁さも持っていた。
彼が筆を持つとその書ぎぷりは、まるで魔物が憑いているかのように、ある時は素早く、またある時は充分に遅くと、烔の存在が消えてしまったかのようにすら見えるのであった。
夫を海外の事故で失ってから、かれこれ17年になる小夜は、孤独の身を書の世界に委ねている。弟子の烔には小夜にはない勁さと大きさがあり、彼女の教室に生徒としてはいってきたのは2年前の春だったが、小夜はそのときから注目していたのだった。
「あの筆の勁さは何処から来るのかしら」
素直で優しい人柄からは想像すら出来ないものだった。小夜がそんな烔に憧憬を持つようになったのは極く自然の成り伊きだった。
「わたくし、あなたの筆の勁さと大きさ…あなたの天性のものだと思うの、羨ましい。わたくしに無くてあなたにあるもの…欲しいわ」
「先生、勁さとは柔らかさの中に自ずと在るもので、決してそれ自体を求めても出てくるものではないと……いつか先生がおっしやったじやあありませんか」
「あら、わたくしそんなこと…わたくしの人間性が狭いのよね、きっと」
「先生、そんな風にお考えにならないで。それよりも先生は、書を求めるよりもひとをお求めになることだと思うのです。生意気なことを申し上げますが、先生はご自分を抑えすぎるのです…女一人で此処までこられるためには大変だったと思いますが、先生だってもうそんなに若くはありません、女の生命としても、あ、失礼、もうこの辺で恣(ほしいまま)に身を任せるのが佳いと思うんです」
「あなた、わたくしのことよ、そんな…」
「ええ、わかっています。『柔よく勁を産む、将に恣(ほしいまま)に為(な)さんとす』私の座右の銘みたいなものですが」
「あなた、成長されたわ、わたくしの心…見抜いてらっしやる、怖いみたい」
二人は歩きながら手と手がぶつかり合うのを敢えて避けるでもなく、むしろその距離はちじまっていった。
彼岸過ぎの木洩れ日が木々の新芽を写し春風に騒いでいた。小夜は父の墓参りを口実に烔を誘ったのである。小夜は父の墓前に愛の褥(しとね)を延べても良いと思った。恥ずかしさを捨てて彼の言う奔放さに身を委ねようと思った。それでこの出ロのないわたしの世界が変わるなら、それが父の供養のもなるだろう。
烔に抱かれた白磁のような裸身から小夜ぺ良い腕(かいな)が伸びヽ傍らに芽出した野生蘭の薹(とう)を握った.それには紙面を闊達に駆けめぐる烔の筆先にも似た柔らかさとヽしかし大地から吸い上げた生命の勁さとが宿されていた。
そして小夜は限りなく落ちていった。
墓石に刻まれた小夜の父の戒名「釈 蘭叢」に、少し喧(かまびす)しくなった木洩れ日が揺らいだ.
了夏つばき梅雨闇に水面くつれて夢たける 愚聴風
「沙羅(さら)さん、それそんなに無理して僥(たわ)めてはダメ、もっと…」
「先生、この枝が思わぬ方向に廻ってしまうのです、この癖が…」
「この夏つばきが過去にどんな成長をしてきたのか知りませんが、その癖も自然のものとしてあなたが呑み込んで、その上で生かしてあげるように全体を創らねばなりません。決して無理しないようにね」
「そう言えば先生がいつも仰るの『華は花に倣(なら)え、樹木は樹木に倣(なら)え』でしたね」
「分っていればりりのよヽあなたのその素直さが佳いわ」
お花の師匠である由布(ゆふ)は弟子の沙羅の後ろへ回り、輪郭のはっきりしない沙羅の肩口からそっと手をさし入れ、乳房を優しく愛撫した。
沙羅にとってそれは、極く自然のことのように思われた。そして、自ら帯を解いていたのであった。彼女には、白い肩から肉付き
良い胸にかけて、ひとに語りかけずにはおかない危うい輪郭があった。
もうかれこれ十年前にもなるだろうか、沙羅がA学院大学の華道部だったころ、定例お稽古の後かたづけを一年先輩の史絵とやっているときだった、史絵に見初められ、同性である気安さから初めての愛に胸を開いたのだった。沙羅は、己の裡から涌き溢れる狂気
にも似た感覚を抑えるのに必死だった。
大学を卒業し、その後平凡な結婚生活をし、一児をもうけ、夫と幸せに暮らしている。
ある時、学生時代の華道部の友人に代官山の駅で出会あい、また華道をやる気になったのである。そして近くの師匠・由布のところへ月に二回程かよっていた。花を前にすると学生時代に帰ったように、何とない心のときめきを覚えるのが好きだった。
「沙羅さん、この肩から胸へかけてのあなたの線て、何か私に無いものを語っているように思うの」
「あら、先生…わたくしなんか」
「あなたの生けたお花のなよやかな芯の動きが、水盤に張った水面に映るでしょう?それがあなたの…この肩から胸への線なのよ」
白い肩からふくよかな胸にかけて撫で下ろす由布の掌に、梅雨どきのじっとりと汗ばんだ沙羅の肌は多くを語って止むことがなかった。やがて由布も帯を解いた。
「それでね、水に写ったこの美しいあなたの化身、それが花なのよ、でもそこで止まってしまってはダメ、その向こう側につなげなきや。」
「むこうがわ‥ですか」
「向こう側は宇宙空間で、あなたの、いいえ、お花の本当の生命が流れ出して‥ずうっと吸収され続けているの。宇宙空間によ、留まることなくね……昔の多くの宗匠達が観ようとしても観えなかった世界よ、あなたはそれを………」
「先生、もっと愛して、沙羅のこと、私を僥(たわ)めて、もっと、無理なくらいに」
学生時代の感覚が甦ってきた沙羅は、夫を受け入れる匣(こばこ)とは別の匣を持っていると思った。
「そこにあなた自身を同化させることなのよ、宗匠達が求めても求められなかったのは、同化するために自己を捨てきれなかったからなの。」
沙羅はそれよりも由布と同化したかった。由布のために己を捨てきりたかった。堅炭(かたずみ)を叩いたときの澄んだ音のような昂まる感覚と共に、由布と沙羅の肉と肉が溶け合うことを求めた。
由布にも己を捨ててもらいたかった。今はそこにこそ「天・地・人」の合一があると思った。
しかしヽ二人の間に官能の糸がピンと張られれば張られる程、乖離のフィルムが間に挟まっているように思えた。
沙羅と由布を写す水面が鏡になって、それが研ぎ澄まされればされるほど相手の容ちは明確さを欠いたのであった。
沙羅の見た水面には、僥(たわ)められた沙羅自身の裸身と、うち捨てられた夏つばきとが写っていた。沙羅の肉は充たされているも、何か水盤に漂う根を喪った萍(うきぐさ)のように思えた。沙羅はそれでも良いと思った。
「沙羅は二つの匝を抱いて生きて行くんだわ、これから…」
次第に遠のいて行く意識の中で、沙羅はそう呟いたに見えたが由布には聞き取れなかった。
水面は重なり合ったニ人の裸身と夏つばきを写し、その向こう側にはもう大きな実をつけた庭の青梅が写っていた。昼下がり、梅雨の雨はしとどに、そして冥(くら)く閑(しず)かに二人を包んだ。
了㊟ 夏つばき:夏椿。 ツバキ科の落葉高木、幹の肌は滑らかでサルスベリに似て、六月に白色の5弁花を開く。径6~7cm。
山地に自生し、古来より庭木としでその清楚な容姿を愛でられた。別名「沙羅」紅葉しておちはして きみ黝(くろ)き渕に ととめすや
愚聴風
「私、さっきから見ているのですけど、あの水底の紅葉の葉、重なり合ったままわずかな水の動きにたゆたっています。今の私達って・・・きっとあんな貌だと思うのです・・・」
「そうだ、隠れ住んで、決して水の動きに逆らってはいけない。君の美しさはそう言うところにあるんだ」
「私って、直ぐに流されてしまうんだわ。 ね、そうでしょ」
「流されることは悪いことではない」
ひと吹きの凩(こがらし)が紅葉を散らせた。
「わたくし、凩の韻(おと)・・・怖い」
梨津子はそう言って永山の胸に顔を埋めた。紬の和服からのぞいた白い項(うなじ)に落ち葉が留まった。淡い石鹸のにほいがたちのぼった。
梨津子の夫は、文化財の研究で長期に亘り京都の方へ出張中だった。二人の子供はそれぞれ学校へ行ってしまい、ひととおりの家事を済ませると、人気のない家が寂しくて、そんなことから近くの雁山湖を散策するのが習慣になっていた。
あれは三ヶ月前の夏のことだった。雁山湖の黝(あおぐろ)い渕を見つめている梨津子に、ふと話しかけたのが永山だった。そのとき、永山の描いた絵の絵葉書を見せられたが、梨津子はその絵をどこかで見た記憶があった。あの暗い流れは何だろうと思ったが、そのまま忘れていた。
それは彼女の裡に住む暗い渕のイメージと相似たもので、永山の絵に重ねてみると殆ど一致してずれるところがなかった。梨律子の中の暗い渕はますます確かなものになっていったのである。
その後三ヶ月間に亘り、二人は幾たびかの夢を重ねた。梨律子の肉は留まることを知らなかった。
梨律子の肌が艶めくと同時に暗い渕はますます黝い艶を増していったのである。
梨津子は一ヶ月に二度の逢瀬が待ち遠しかった。湖畔の一室で永山と夢を重ね合って幾そ度になるが、それだけにその一回一回は新鮮で、また多くの発見とともに濃密で確かな刻印を押された。
「わたくしたち、もう何回になるかしら、わたくしいつも新たな居場所、いいえ高みのような悦びを・・・あなたが下さるんですから・・・」
永山のお気に入りの紬から抜きだされた肉付きの良い白い肩から腕へかけての流れは梨津子の一番美しいところだった。
そこをじっと眺めている永山を、梨津子は狂おしいばかりに愛おしく思うのだった。
(いつまでも、そうやって見つめていて欲しいわ・・・)
永山と探る暗い渕には二ひらの楓の葉が揺らいでいた。ときに激しくなるとまたたゆったった。
やがて楓の葉は二匹の胡蝶になり、重なった二枚の絵の渕へと落ちてゆくのだった。
梨津子は永山の下にあって、落ちて行く胡蝶の舞を見ていたら二匹はやがて重なり一つになったかと思うと又分かれて、それぞれ別々に黒い渕を一直線に落下していった。
胡蝶は梨津子自身だった。
「きっと死ぬときはひとりなんだわ」
身をもって自分の孤独を悟ったとき、梨津子は凩の叫びを聴いたように思った。
了葛生の冬葛生野の籬(まがき)に残る枯れか葛の
撚れ合う蔓に俤(おもかげ)ぞたつ 愚聴風
彩は蝋梅の花に顔を寄せて仄かな匂いを確かめた。葛生寺の小さな塚の傍らにある蝋梅は、毎年立冬の日を待ちかねるかのように花開き香りをたてた。
彩は古文書研究一途の夫と結ばれかれこれ二十年にもなるが、子供に恵まれず夫と二人暮らしである。彼女は去年もその所在なき身をこうしてここの蝋梅に身を寄せたことを思い出した。
「失礼ですがあなたは去年も、一昨年も確かこの蝋梅を眺めておられましたね」
「あら、そうでしたでしょうか、こうして顔を寄せると…艶のある花びらからいい香りが立って…」
惟衡(ただひら)は葛生寺の画憎として住み込んで何年かになるが、葛生寺に残る資料を参考に、中世の「斎院日記絵巻」を制作中である。斎院とは伊勢神宮に仕える皇室の処女である。
「私の描いている絵巻物を見て頂けませんか、自分の畢生の仕事としてこの寺へ残したいのです。」
彩が案内されたところは庫裏裏手の小さな寺宝堂だった。伎芸天を祭る一二畳半の和室一杯に描きかけの絵巻が延べられていて、見ている中に主人公である斎院の顔かたちが自分に似ているのに驚きと不気味さを感じた。
「二年前のことですが、この蝋梅のところでお見かけしたあなたは和服姿でした。それ以来私の目にあなたの残像が、そして去年も…」
「あら、いやですわ、そんな前から…ウォッチャーされていたのかしら」
感慨深そうに遠くを見やる惟衡の眼に、彩は若くして他界した父を見たかに思い、何と無い懐かしさを思うのだった。
○ ○ ○ 寺宝堂での逢う瀬はいつも昼下がりに限られ、夜の逢う瀬と言えば惟衡に抱かれ、激しい潮が去り気が遠のいてゆく時に微かに除夜の鐘を聴いた、この一度だけである。
逢う瀬を重ねるに従い彩の身体には惟衡の確かな刻印が刻まれ、彩はますます想いの彩(いろどり)を濃やかにしていった。
惟衡の刻印が彩の裡深くに刻まれる毎に、最早普通の愛の契りでは済まない肉になっていった。
昼下がりの画室、斎院日記絵巻の傍らに彩の白い裸身が横たわる、惟衡の持つ刷毛が彩の身体の爪先から首へかけてサットはかれる、緑青色は肌の詣で弾かれ垂れ、流れる。
それは白い障子に映る枯れ枝の影を背景にして豪奢な屏凧絵だった。形の佳い乳房は月下に栄える塚だった。
傍らの絵巻はと見ればいよいよ終盤にかかり、斎院は赤鬼によって犯され、鬼に委ねた斎院の形相は、鬼に肉を捧げた女のみに与えられる至高の快楽境(けらくきょう)を露わにしていた。
快楽に遊んだ不浄の女はそして斎院の座を追われるのであった。彩は今将にこの絵巻の中にあるのだった。
「私、斎院と同じ運命を辿るような気がします…」
「斎院日記の原本は鎌倉時代に書かれた物だ、今とは時代が違うだろう。あなたにはあなたの生活がある」
障子に映る枯れ枝の影が激しくゆらいだ、春を予期する南風だ。生暖かい風と共にやがて立春がやって来る。
葛生寺もそろそろ追儺(ついな)の準備にはいることだろう。
「ところで、私は絵巻を描き上げたら長い旅に出ます。遠い陸奥(みちのく)の古寺でまた画僧の修行です」
「私、あなたに刻まれた…彩の肉に打たれたあなたの刻印は忘れません…あなたの無形の形見です、お引き留め出来ることでもありませんし」
一筋の涙が、彩を抱く惟衡の腕に落ちた。
○ ○ ○ 寒が明け春が立った。葛生寺の裏へ廻ってみるとあの想い遥かな寺宝堂の姿が無い。春が立つと同時、一夜にして消え去っていたのである。寺宝堂の跡は幾つかの苔むした礎石を残すのみで、霜に打たれた葛の蔓の絡み合う葛生野であった。彩はしかしこれを不思議
とは思わなかった。
「あの方、蝋梅の亡霊だったのかしら…それともあの塚は絵師の塚かしら…」
彩は深い絶望の淵に立ち霜枯れの葛の葉を一枚取った。和服の懐にしのぼせ、惟衡の掌になぞらえて乳房を包み込むように押し当てると冷たい触感に心が貫かれるようだった。と同時に代赭色(たいしゃいろ)の冬野を全裸で疾走する己を見た。
緑青色の滴りが付着していた。愛していない訳ではないが夫を捨て落飾し、葛生寺で出家--と言う生き方もあろう、と考えたとき、未だ未来へ繋がる赤い糸口が残されているように思った。
(そうだ、今の私は夫との愛を深めることしかないわ、そのことが夫も私も救われる道なんだわ)
季あたかも蝋梅から紅梅へと移っていたのであった。
了