酒田（山形県）に転居すると言ったら、「どうして山形県なんかに行っちゃうの？」と言った友人がいた。それをこちらで話のネタにすると受ける。東北人にとっての一種の「自虐ネタ」になるのだ。東北地方が、東北以外の人からどう見られているかをよく表わすエピソードとして。
　かつて「外国人登録証」の指紋押捺拒否の運動が盛り上がった時、ある韓国籍の若者は、自分が「本名宣言」を決心するに至るいきさつを話してくれた。通名で暮らしていても韓国人であることは知られていて差別やいじめを受けた。そのとき、最後まで味方についてくれた親友が「きみは韓国人なんかじゃないよね」と言ったのだという。
　なんか切なくなる話だ。東京育ちのぼくは、級友の言動に表れる東北蔑視から、自分の出自に目覚めていった。時々「在日東北人」などと自己紹介したりもしたものだ。
　だが、東北で生まれ育った東北人と、東北生まれ東京育ちの在日東北人とでは、大きな隔たりがあることは否めない。東北に住んでみて、その豊かさ（自然、文化など）に改めて気づかされる。３・11の震災の時、ヨネスケが某ラジオ番組で言った「素朴な東北人」という言葉がいかに偏見に満ちたものか。
　酒田に住んで６年、いまだに飽きたことがない。

　とはいうものの、東京や横浜にあって酒田にないものも多く、時には一抹の寂しさを感じることがないわけではない。もちろんなくてよかったと思うものだってあるけれど。
　高いビルがないのはよいことだ。空が広々としているのは精神衛生によい。（谷戸と呼ぶ地形の底の学校と、丘の上の学校に勤めた経験があるが、子どもの性格は明らかに違っていた。谷戸の学校は渓流が流れ緑の山に包まれていたが、子どもの全体的な印象は内気で消極的だった。一方丘の上の学校に通う子は、人がよく楽天的だった。
　本屋がない、というより少ない。書店のカウンターで、運転ができないから嫁に連れて来てもらわなきゃならないと苦情を言っている老人がいた。言われても店員は困ったろうが、気持ちは理解できる。そのかわりパチンコ屋は多く、しかも昼間から繁盛している。ひまな老人と、職のない若者、引きこもりが多いからなのだろうか。困ったものだ。

　なくて寂しいもの、ツマグロヒョウモン。なにそれ？　蝶だ。雌が沖縄の毒蝶カバマダラに擬態しているのに、近年勝手に分布を北に広げ、関東地方まで生息域を広げた。せっかくの擬態も、毒蝶のいないところでは無意味なのに。それはともかく、あの南国風のオレンジ色の蝶はさすがにこちらでは見かけない。
　なくて嬉しいもの、アオマツムシ。近ごろの若い者は、秋の虫の音を雑音だと捉えるという。無理もない、都会では外来生物であるアオマツムシが増えすぎて、「リーリー」とわめきたてる声が風情というものを完全にぶち壊してしまった。
　ところが、酒田にもアオマツムシが侵入したらしい。８月の終わりごろになると、アオマツムシの声が聞こえてくることがある。しかし、元気に鳴く他の虫、エンマコオロギやツヅレサセコオロギ、カンタン、カネタタキの声を妨害するほどではないし、９月になればこちらは急に秋めいて気温も下がっていく。（え？　今カンタンって言った？　言いました。「高尾山でカンタンを聴く夕べ」などの催し物さえあるあの希少なカンタンも、町中で聴くことができる。）気温が下がるとアオマツムシはとたんに元気をなくしてしまうのだ。声のトーンが下がればやかましくはないし、もっと気温が下がると鳴く気力もなくなるらしい。毎年鳴くのだから繁殖もしているのだろうが、いまのところ他の虫と共存できる程度ではあるらしい。
　酒田にあって東京や横浜にないもの、すぐそこにある自然。鳥海山やトレッキングできる里山には日帰りできるし、一斉に咲き出す春の花といったら。
　山でなくても、朝夕散歩している森。もともと防風・防砂の黒松林なのだが、長年の放置によって雑木が生えてきた。それを市が雑木林とし、公園として整備しているらしい。この森にはリスが棲み、オオタカやノスリなどの猛禽類が営巣し、冬鳥や夏鳥たちの休憩所にもなっている。雪の上の足跡によれば、キツネやタヌキもいるようだ。
　都会とは言えないかもしれないが、田舎暮らしではない町暮らし。捨てたものではないですぞ。
　おっといまラジオで言っていた。今夜、酒田の能楽堂で「橋弁慶」の公演があるって。お金持ちなどほとんどいないだろうけれど、文化の水準はとても高いですぞ、この町も。
　でもそんな素晴らしさに、この町の多くの若者たちは気がついていないらしい。残念だなあ、もったいないなあ。