1年5組鶴田くん28歳逝去の物語2
店番をしているだけの様な仕事だったので楽だった。しかし、やがて彼の右膝の下が腫れてきた。医者に行ったが「筋肉痛」だと言われた、でも腫れが治らないので、阿佐ヶ谷の河北病院へ行った。 すると、入院して下さい、と言われ、彼は入院した。そして、すぐにお茶の水の順天堂病院に移された。すると直ぐに右足が太ももから、切断された。骨肉腫だった。21歳だった。 彼の生活は一変した。家から一歩も出なくなった。僕はよく彼の家へ行ったし、山本山の女性たちとも行った。やがて彼の家は横浜の二俣川へ引っ越した。僕は国立から二俣川へいくことになった。 国立から二俣川までは遠い。車で二時間以上かかる。でも僕は、学生の頃は、毎月一回くらいは行った。 やがて僕は就職した。それでも2,3カ月くらいに一度は、彼の家を訪れた。級友たちを連れて行く事もあった。吉田悦子さんがいく事もあった。時がたつのは早い。やがて僕らは、28歳になった。 そして、彼の病が再発した。順天堂病院に入院した。僕は毎日の様に彼を見舞いに行った。しかし、治療の甲斐もなく、昭和51年11月15日、彼は落命した。僕はその日の前に彼にあった。 「明日は面白い競馬があるよ、テンポイント、トウショウボーイ、クライムカイザー、という3大名馬が京都競馬場の菊花賞で戦うんだ」「へえ、面白そうだね」 菊花賞は全く無名のグリーングラスが3大名馬を打ち破り奇跡の勝利をした。グリーングラスの名は僕の記憶に残るもののなった。 彼の葬儀は盛大に行われた。大勢の人が集まった。僕も級友たちと参列した。彼は四人兄弟の三番目で一人息子だった。しかし、死神は彼を狙い撃ちするよう襲った。 彼の延命を願った父親は創価学会に入会していた。葬儀は お題目の流れる中で行われた。 彼の墓は鎌倉霊園に建てられた。 僕は彼の墓の前に立ち囁いた。 何の為に生まれてきたのか 何の為の人生だったのか 吹き来る風に僕はそう問いかけ続けた。
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