蘇芳雲(すおうぐも) 初夏(はつなつ)の風とどめたり 立 夏
先日の美しいあなたと美酒(うまざけ)の味は私の心深くに突き刺さり、その余韻が薄れるのに多くの時間を必用としました。 さて、早速ですがお尋ねのことについて少々述べてみたいと思います。 まず「哀れ」についてですが、我が国で言う「哀れ」は「あはれ」のことで、欧米のそれとは本質的に異なっているでしょう。欧米の「哀れ」は特定出来る対象があることです。つまりマタイならばその対象が主なるキリストや殉教者で、その方々に感情移入をします。一方我が国の「あはれ」は特定出来る対象は存在せずに、その場全体の情動や境地のようなものではないかと思うのです。無常観のような抽象的な「趣」・「哀れをもひっくるめた全体の心の有り様」のようなものなのです。欧米人とは本質的に違う世界でしょう。彼ら西欧人は、西欧思想の二大支柱と言われる「ヘレニズムの精神」と「キリスト教の精神」が基底にあるのですから。例えぱあなた・茜さんが夏風の中に佇めば、風・風光・その季節の樹木など、捕らえどころのないその全体が私の心に「趣」を響かせる、この響きを自らが聴くことが「あはれ」であり、あなた自身が「哀れ」ということではありません。ですから、「哀れ」は客観的であり「あはれ」は極めて主観的と言わざるを得ません。 次、②の「パッション」ですが、貴方に言われ、まさか…と思って改めて「Passion」の意味を調べました。私は今まで誤解していました。 英和辞典・仏和辞典では、第一義として「キリストの受難(特に橄欖山よりゴルゴダの丘迄の道)」そして…、第二義として「情熱・情欲・激情」と出ていたのです。 一方我が国の大辞林では、第一義として「情熱・情欲・激情」、第二義として「キリストの受難」とありました。恥ずかしいことに全く知りませんでした。これは「哀れ」と「passion」が同化した情態なのですね。で、西欧、特にキリスト教圏の「民族の血」になっているのでしょう。そしてこの「哀れ」は哀しみと捉えて良いのではありませんか。さすればその対象は「受難・殉教・原罪」等というように特定されるでしょう。 一方我が国の「あはれ」は感嘆詞に近い語句ではないか。「嗚呼!」と同様に。特定する物事のない、その場の情趣・趣・風姿のようなもので、それらを「聴く」ときに生まれる感覚が「あはれ」なのではと思います。とりとめもなく、淡く、消えゆくもののように。それは私の「蜃気楼」、言い換えれば「哀れ」は客観的、理論的、一方「あはれ」は主観的、超論理的ということになるでしょう。 そして貴方の質問③、私の「蜃気楼シリーズ」の根元は「故郷」ではないか…について述べさせて下さい。 真に残念なのですが、私には故郷がありませんしPassionの根底が西欧人とは違います。従ってあのロマンティックな望郷の念も帰るべき処も無いのです。猫のように孤独、チョット 格好をつけるなら「空」のみが広がっている…ということでしょうか。しかも困ったことに対人恐怖症です。恐い人、威張る人、偉ぶる人は特に嫌い。だから、だからね茜さん、貴方が私の故郷、私より30歳も若い貴方に申すのはおかしいかも知れませんが、貴方は私の故郷でありまた母なのです。 私の蜃気楼のイメージは「虚空間」です。事実や現実は意外にもつまらないものでしょう? 写生の時代も過ぎ去りました。写生・写実はM・デュシャンが「クールベ的」と言っている世界です。それよりも観念世界に遊んだ方が面白いでしょう。私の人生の中で、私の恐怖する多くの人達から「おまえの絵は観念的だ!」と言われてきました。爾来その事には疑問をもちながらも観念的な絵画表現に罪悪感とコンプレックスを持ってきました。 M・デュシャンはまた次のようなことを述べています。 「物体には陰影があります。陰は物体に光が当たって出来るトーン、もうーつの影は物体が卓上や地面に落とす影ですが、これを見ると3次元である物体の影は2次元、つまり平面になっています。敷衍して4次元の影は3次元に投影されるのです」と。 以上の観念が形象化された作品が、2枚の巨大ガラス板に描かれた「彼女の独身者達によって裸にされた花嫁、さえも」(1915~1923年作)でした。 私は理論物理学をよく知りませんから、4次元以上の世界は分かりません。現今では5次元・6次元・数次元界も存在すると言われていますが、しかし、分からないけれども、この「意味の果て」に興をそそられます。空間座標とて同様です。 複素数というのがありますが、「実」と「虚」が一緒になった数、また最近は複雑系の研究ジャンルも盛んになっているようです。おおくの要素が複雑に絡み合い、その全体と部分とが関係づけられる…という、特に芸術表現に似ているようにも思えます。これはカオスやフラクタル図形とも関わりがあるでしょう。 もう30年ほど前になりましょうか、南ア/レプスの北岳という標高3192mで富士山の次に高い山ですが…に登ったときに、握り拳大の、北岳の全容にそっくりな岩石を拾ってきました。大事にしていましたが今は何処へか消えてしまいました。「部分は全体に含まれる」これは常識界、対して「全体は部分に含まれる」これがフラクタル図形です。北岳の全容と相似形の一岩石にそのことを体験したかに思ったものでした。こんな世界の「意味の果て」に好奇心が唆されるのです。 何とも想念が拡大して、貴方の質問への答えとしてはとりとめが無さ過ぎるでしょう。しかしながら、此処に述べたような、自分でも訳の分からない世界が「私の蜃気楼出現」のルーツに関係無いとは思われません。このような観念は貧しい私の創作経験から導き出されたものですが、その根底に蠢くものは 「多様」「多視座」「偶然」 の三要素だと思います。これがこれからの世界の思想を牽引することになるでしょう。 現代は視覚界に比べて思想界が遅れています。思想・哲学が技術・経済について行けないところに世界人類の不幸があるのではないか。哲学は哲学史を教えるためにのみあるのではありません。 時代は確実に変化しています。変化とは退化と進化と捉えることが出来ますが、私の体調などは将に退化の一途で、日く「退化の改心」を迫られています。 そんなわけで五百年、千年、。二千年も前の思想に帰依すること…まあ、ニュートンやポワンカレーと言ったたところは別にしても、プラトン、デカルト、ヘーゲル等は過去の人ですから、-般人が彼らに感動しているのは結構でしょうが、それではアマチュワの領城を出るものではないでしょう。チョット新聞で見たのですが、ダ・ヴィンチの約100年後輩に当たるガリレイが述べた「自然という教科書は全て数学で書かれている」と言ったことを、わが意を得たりとばかりに得意になって解説している理数系の研究者がいました。如何なものでしょうか。プラトンもダ・ヴィンチ、ガリレイ、デカルト等なども天才と同時にアヴァンギャルドだったのです。創造は常にアヴァンギャルドであるべきなのです。思想も創造です。勿論芸術も創造活動ですから、アヴァンギャルドであらねばなりません。特に感性界は「おふくろの味に帰る」といわれるように保守的という宿命を孕んでいるので注意が必要です。そして新しいことはいつも世間の批判に曝されるのです。私は思想家でもなく単なる歯槽膿漏で、少々僣越とも思いますが、前述の「多様」「多視座」「偶然」の3要素をx・y・z軸にした新たな空間座標をここに提案したいのです。 先日あなたと新宿で呑むことが出来たのも、偶然にヨドカメ二号館で出会ったからでしたね。偶然は必然を予期する重大な要素ですが、私たちの人生も言ってみれば「偶然を必然化してきたものの一連」とも考えられるでしょう。 今度貴方と出会えるのは一体何処に於ける偶然でしょうか、楽しみです。 季の変わり目故、どうかご自愛の上御精進されますよう。 あなたへの愛をこめて。 愚 茜 様
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