音楽であれ、美術であれ、映画であれ、どんな作品、アーティストが好き?と日本で問うと、大体みんな誰でも知っているような名前しか返ってこない。日本人ほどメジャーなお仕着せを喜ぶ国民も珍しい。
闘牛というアートに、それは成り立たない。闘牛を見て、何となく好き、なんてことはあり得ない。闘牛は、その美を、見る者に原初的につきつけてくるからだ。息をのむ。
そもそも闘牛とは何か?
日本に闘牛ファンがいないのは、闘牛がないからだ。スペインに温泉通がいないのは、温泉が誠に少ないからだ。
闘牛とは、まずこのものすごい牛を眺めることである。夏の午後の強い光に黄色く輝くアレーナに猛牛が放たれた時にこそ、人は野性の美に感動して嘆息をつく。
漆黒の毛並みの下に筋肉の盛り上がりが躍動するのを人々は観賞する。牛は背に小さな矢尻を打たれて怒っている。敵を求めてアレニナを走り回り、やがて闘牛士を見つけて襲いかかるが、ピンクの布カポーテでいなされる。次に馬を見て襲いかかると、馬上のピカドールに槍で背中をしたたかに突かれてしまう。血がその傷からあふれて前脚をつたって黄色いアレーナを赤黒く汚す。そこへ銛手のバンデリジェロが花飾りつきの短い銛を3対6本も、その傷の周辺に打ち込むので、牛は痛がる。
これが牛の死の準備である。ソクラテスは、哲学とは死の稽古だと言った。牛は無理やり、ここで哲学させられるのだ。
やがて殺し屋マタドールが、赤い布1枚と、先の方が狡猾にそり返った長剣を持って登場する。彼の振るう赤い布を牛は敵だと信じて突っ込んでいく。が、布は牛の直前を逃げていくので、牛の体はそれを追って、覚えず美しいループを描いてしまう。
客はそれを見て「オレ!」と叫ぶ。美しいからだ。闘牛士自身は地面に剌さった杭のようにピタリと動かない。その柔らかい腿すれすれに、牛の角がゆっくりと通過する。闘牛士がおびえてピクリと動けば、牛はそちらを見るから、角は闘牛士の光の衣裳を引き裂くこともあり、時には血を噴く胴体を5メートルも飛ばすこともある。
名闘牛士パキーリは、そうして血を流し、輸血も間に合わず、「大丈夫だ。俺は慣れてる。何でもない」と言いながら、死んだ。「闘牛士ポンセを殺した牛の、ああ何と黒かったことよ!彼は妻クリスティーナの名を呼びながら死んだ」というカンテの詞もある。
牛は野原で育つ時に何ら死の稽古をしないが、闘牛士は殺しの稽古と同時に、自らの死の稽古もせざるを得ない。それ故にこそ闘牛士は、サッカーの選手とは違う尊敬を受けるのだ。
最後にマタドールは、牛と対峙し、突っ込んでくる牛と刺し違え、長剣で牛の奥深い血脈を突き切り、牛を殺す。客はこの時「オレ!」とは言わない。「ビエン(よろしい)!」とつぶやくのみ。かくて、スペイン人は、美と死の表裏を毎回見届けるのだ。美は残酷である。闘牛に勝敗はない。ただ一期一会の美を観賞するのみである。芸術である。
近年、闘牛が残酷だという、欧米諸国の動物愛護の声に押されて、とうとうカタルーニヤ州では廃止となった。しかし、盛大に肉食をし、戦争も行っている国々がそれを言う資格はあるまい。いつの日か人間同士、殺し合いをやめ、核を捨て、誰も肉を食わなくなった美しい朝にこそ、闘牛廃止はスペイン人自身によって語られるべきだろう。
朝日新聞GLOBE より
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