「風神雷神図」比較俵屋宗達生没年不詳(157?~1641?) 京唐織屋の蓮池氏または喜多川氏の一族。通称は野々村宗達、号は「伊年」あるいは「対青軒」。絵屋あるいは扇屋、「俵屋」を主宰し色紙、短冊、巻物などの料紙装飾、扇面画などを制作。後に法橋となり、琳派の創始者といわれる。
「風神雷神図」俵屋宗達 引用元:京都国立博物館 HP
款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、さらにそのあとの酒井抱一も、これを模倣した作品を制作しているのは、彼らもまた、この屏風が宗達筆であることを微塵も疑っていなかったからである。 ここに貼りつめられた金箔は、描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある。
俵屋宗達筆 紙本金地著色 各 154.5×169.8 cm 江戸時代(17世紀) 京都 建仁寺 国宝 |
俵屋宗達 wikipediaより
俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生年未詳 - 寛永20年?(1643年?))は、江戸時代初期の画家。 通称は野々村宗達。号は、「伊年」あるいは「対青軒」ほか。 宗達は尾形光琳と並び称せられる、近世初期の大画家だが、その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、その伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない。「俵屋」という絵画工房を率い、主に扇絵を制作していたらしい。しかし、宗達は単なる扇絵職人ではなく、当時の皇室から作画の依頼があり、また、当代一流の文化人であった烏丸光広(からすまるみつひろ)や本阿弥光悦らの書巻に下絵を描くなど、当時から一流の絵師とみなされていたことは疑いない。著名な「風神雷神図」のような装飾的大画面のほか、水墨画の作例も遺る。水墨の名作「蓮池水禽(れんちすいきん)図」は、生乾きの水墨にさらに濃淡の異なる墨を含ませて「にじみ」による偶然の効果を狙った、いわゆる「たらしこみ」の技法が用いられている。
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尾形光琳1658~1716 京都の呉服商「雁金屋」に生まれる。初名を惟富、通称は市之丞といった。光琳の曽祖父尾形道柏の夫人は本阿弥光悦の姉。5歳年下の弟権平は後に画家・陶芸家としてしられるようになる乾山。能楽、茶道、書道などにしたしみ、絵は狩野派に師事。35歳ころより絵をはじめ、44歳には法橋の位をえて以降本格的に絵を制作。雁金屋は東福門院(徳川秀忠の娘、後水尾天皇の中宮)の用をつとめ、二条家の当主で摂政・関白をつとめた二条綱平や京都銀座役人の中村内蔵助の庇護をえた。1704年ころ、中村内蔵助をたより江戸にでて、姫路藩主酒井家から扶持をえた。また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家などともつながりがあった。
「風神雷神図」尾形光琳 引用元:東京国立博物館 HP
風神,雷神はもともと千手観音の眷属で,他の二十八部衆とともに尊崇された。これは宗達の最高傑作を光琳が模写したもの。風神と雷神が画面両隅から向い合う緊張感ある構図と,広々とした金地の空間が宗達画の特徴なら,光琳は2神の位置を中央に寄せて構図の安定をはかり,むしろ2神の姿を鮮やかな原色で明確にとらえることに努め,造形感覚の違いを示す。
紙本金地着色 尾形光琳筆 各縦166.0 横183.0 江戸時代 18世紀 重文 |
尾形光琳 wikipediaより
尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) - 享保元年6月2日 (旧暦) 6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家。工芸家。 後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家である。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザイン等に与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇 扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。
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酒井抱一1761~1828 神田小川町姫路藩別邸にて藩主酒井忠仰の二男に生まれる。本名は忠因、狂歌の名は尻焼猿人。大手前の藩邸はサロンのようになっており、若いころより茶人としてしられる兄忠以の庇護のもと、徘徊や狂歌、浮世絵などに才能を発揮。37歳で出家し、光琳の事蹟の研究や顕彰につとめ、1815年には百回忌記念の光琳展を開催。展覧会図録として『光琳百図』を刊行。この図録は後にヨーロッパにわたりジャポニズムに影響をあたえた。弟子は鈴木基一。代表作の夏秋草図屏風は、一橋徳川家が所持していた光琳の風神雷神図屏風の裏面にえがかれたもの。彼らを後に江戸琳派とよぶ。1809年、吉原の遊女小鸞女史を見受けし、下谷根岸の雨華庵でくらす。墓所は本願寺別院。
「風神雷神図」酒井抱一 引用元:出光コレクション HP
天部の神である風神と雷神を描いた屏風。このユニークな図様の原案は、言わずと知れた宗達の国宝「風神雷神図屏風」(京都・建仁寺蔵)にある。宗達は弘安本系「北野天神縁起絵巻」の清涼殿落雷の場面から神々の姿を引用し、金地の大画面にこの二神を解き放ったのだった。まず光琳が宗達本を模写し、さらに抱一が光琳本を模写した。抱一は風雷神の位置や、雲の動態に変化を加えている。また神々の表情にも通俗で人間的な親しみやすい雰囲気が見て取れ、恐ろしい異形の神が、抱一らしい軽快な二神に生まれ変わっている。
酒井抱一 江戸時代 紙本金地着色 各170.7×170.2cm |
酒井抱一 wikipediaより
酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日 (旧暦) 7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日 (旧暦) 11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師。本名は忠因(ただなお)、字は暉真。鶯村、雨華庵とも号する。姫路藩主・酒井忠以(ただざね)の弟。 大名家の次男に生まれた抱一は、若い頃から俳諧や狂歌、浮世絵等に才能を発揮し、37歳で出家した後は尾形光琳に私淑する。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山派や土佐派などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。代表作の「風雨草花図」(「夏秋草図」の題名で広く知られる)は、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の「風神雷神図」屏風(重要文化財)の裏面に描かれたものである(現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている)。風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事に照応している。
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鈴木其一1796~1858 江戸中橋の染物屋(滋賀出身)に生まれ、18歳で酒井抱一の内弟子となり、1813年には酒井家家臣の鈴木家に入る。鈴木家をつぎ抱一の付人となり、根岸(下谷金杉大塚・現台東区根岸5丁目)の雨華庵の隣にすむ。師の代筆などもおこなった。『光琳百図』の制作にも参加し、はじめは抱一の画風を継承するも、抱一亡き後には、「夏秋渓流図屏風」「朝顔図屏風」など、琳派の装飾的な要素と写実的で精緻な描写が一体となった、独自な絵画世界を開花させた。また、遊び心に富む描表装による作品も得意とした。後年、画号を菁々 基一といい、1857年には次女お清を河鍋暁斎のもとに嫁がせ、長男の鈴木守一が画業をつぐ。墓は浅草新寺町の正法寺。正法寺は1614年日本橋馬喰町に創立されるが、1657年の明暦の大火で焼け浅草の新寺町に移転。1923年には関東大震災にて再び被災し、1925年に現在の地に再建された。
「風神雷神図」鈴木基一 引用元:東京富士美術館 HP
俵屋宗達から尾形光琳、そして酒井抱一へと琳派の巨匠たちによって描き続けられてきた重要な画題である「風神雷神図」を、抱一の弟子である鈴木其一が描いた襖絵。襖の八面を使って、四面に風神、もう四面に雷神が、余裕ある空間の中でゆったりとえがかれている。“たらしこみ”の手法や大胆な筆さばきによる墨で一気に描かれた雲は、画面に複雑な調子と動きとを与えるとともに、広大な天空を感じさせ、彩色された風神雷神と美しい調和を示している。
江戸時代後期 絹本着色 襖(八面) 168.0×115.5cm(各) |
「風神」の比較風神 俵屋宗達
風神 尾形光琳
風神 酒井抱一
風神 鈴木其一
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