心の奥の深いところで
保育園の中にある一時保育室です。登園してくるお子さん方の顔ぶれが毎日変わります。 とりあえず争い事やもめごとともなく穏やかにあそべている日もあります。三々五々実に平和です。 その一方で喧嘩する日もあります。笑ったり泣いたり千変万化実に忙しいもんです。
こんな言葉をご存知ですか? 『今ないたカラスがもう笑った』 子どもさんたちは泣くのだって笑うのだって瞬間、瞬間を全力投球で生きていますからその分だけ泣ききれるし、笑いきれるのです。だからこそさっきまであんなに一歩も譲れないと我を張りあっていたくせに、それでいて気持ちの切り替えも早いのです。 そうかと思うとその一方で、気まぐれで人が良くて能天気(?)なのかとも思えるお子さんもありまして激しく喧嘩していてもケロリと気分の転換もたやすいという事例もあります。
この一時保育室は満2歳になるお子さんから満3歳になるお子さんたちの同居している保育室ですから、時として子どもさんたちの発達の段階によっては『○○ちゃんのぉ~』 『だめぇ~』とその場に居合わせた他のお子さんとの間で「おもちゃ」や「場所」の取り合いが見事に頻発する旬の時期という顔ぶれのケースもあります。さらにもう少し成長すると、『お友達との一緒のごっこあそび』の中で役割の取り合いなども生まれてきます。「わたしがおひめさま」「わたしこそがおひめさま」と自己主張は極まります。「なら二人お姫様になったら…」と提案するとあっさり合意が成立したりして、こんな時、存外仲裁に関わる大人の頭の『やわらかあたま加減』も問われているものなのです。
さて、話題を先ほどの争いごとの場面に戻しましょう。 遭遇した大人たちはたいていこう言います。 「ひとりじめしないの」「むりやりとらないの」「きゅうにわりこまないの」 「『か・し・て』っていいましょう」 「『い・れ・て』っていってからはいりましょう」 「いっしょにつかいましょ」 「じゅんばんこでね」 などなどそのお子さんがほかのお友達と共に生きていくうえでの知恵や手続きやルールやちょっぴり広めの世界観などを伝授したいので繰り返し、繰り返し粘り強く伝えます。 この時、子どもさんたちのその場の心情に沿ったものでない限りは納得に至らず、四角四面の大人の世界の理屈を大上段に振りかざして表面的な形ばかりを強要しても、子どもさん方にしてみれば大人からなんといわれようともお子さん方は大人たちが期待したい本物の世界の方向には育ちません。本物が育つためには手間暇がかかるのです。 親御さんにしてみれば「どうしてうちの子はよその子と一緒に仲良く遊べないんだろう…」」と我が子の行動を見て心痛めるときもあるでしょう。ママさんパパさん焦らないでください。今彼らは本物の優しさやいたわりの心が育つための修行中なのです。
数日前こんなことがありました。その日登園した子供の中で一番年かさの子がお昼寝明けの最中に実に珍しくも「ママ~」「ママ~」と泣きだしました。実に大きな声で激しく泣いて、泣いて、泣き止みません。恐らく怖い夢でも見たのでしょう。 しっかり目覚めさせたいので布団から起こして抱っこでその子の名前を呼び掛けます。 けれども両目はギュッと固く閉じていて私の呼びかけにも目覚める様子がありません。 その大きな泣き声であらかたの子どもがお昼寝から目覚めました。 泣き声が弱まりもうじき泣くのもおしまいになるかなというころ、日頃は「○○ちゃんの!」とひとり占めやら、自分の思いを過激に主張していざこざの主となるやらのAちゃんが窓辺にあるおもちゃを指さして大泣きしている子に向かって何か提案しています。 居合わせた私は最初、一体何を言おうとしているのだろうといぶかしく思いました。 その子は大泣きしている子よりも約一歳くらい月齢の低い幼い子なのです。 だから言葉だってまだまだ流暢に話せる月齢でもありません。
「ほら、ここにこれがあるよ、これであそんだら…」みたいなことを言っているかのように、必死に慰めているのです。 悲しく激しく泣いている姿に共感的な理解をしたのでしょう。 自分の脳みそを使って精一杯に感じ取り、精一杯に知恵を絞って慰めているのです。 一見独占欲のまさに旬のように思えるその子の心の奥の深いところで今同時に育ちつつある素晴らしい感性の育ちがあるのです。そこを読み取っていくのが保育の醍醐味です。
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