麦と私 引用元:絵に描けないスペイン
私か生まれたのは、東京の駒込千駄木町の根津権現の傍の長屋である。母は「一軒家が並んでる」と言うが嘘だ。長屋である。すぐ、坂の上の真砂町三十六番地の清和寮という巨大で陰気な洋風アパートに移った。北向きの六畳一間に父母と妹と私か住んでいた。便所も水道も、暗い廊下の果てにあった。ガスだけは各部屋にあったので、よく自殺者が出た。ブリキの湯タンポにふたをして火にかけて眠りこけた独身者がいて、大爆発をしたこともある。 昭和二十六年頃、陽の当たらぬ広いベランダで一人三輪車をこぎながら、三歳の私はつくづく嘆息をついた。 「ああ!ぼくは一体いつまでこうして三輪車をこいでなくちゃならないんだろう!」 ふり仰いだ暗い黄土色のアパートの壁を憶えている。あれこそ、人生だった。 東京の中心なので、すべての地面はコンクリートでおおわれていた。公園の土もカチカチに固まっていた。わずかに柔らかいのは砂場の砂であったが、それは洗面器の水のようなもので、何の喜びももたらさなかった。 夏は暑かった。母に手を引かれて、真砂町、春日町、水道橋を経て、お茶の水の三楽病院までよく連れて行かれた。いつも太陽熱でアスファルトが柔らかく融けていた。にちゃにちゃ靴の裏にくっついてくる舗装の坂道を地獄のような思いで上った。ある日、手術台にのせられて、開いた口の奥に注射器を突っ込まれた。口を絶対に閉じてはいけない、血が奥に入るからずっとアアアと声を出していなさい、と医者に言われてその通りにした。私はずうっとそうしていた。人生とはこれのことだと思って、そうした。あとで、アデノイドを取ったのだ、と教えられた。母によれば、私はいつも口を開いたまま息をしているので、それはアデノイドのせいで、アデノイドを取れば口を閉じて呼吸をするようになり、頭も良くなる、というのであった。 その翌年だったか翌々年だったかの夏、私はまた同じ道を、母に連れられて、暑熱地獄の坂を上った。三楽病院で今度は扁桃腺を取るのだと教えられた。また私は手術台に乗せられ、またアアアと声を出して血が奥に入らないようにした。扁桃腺は二ツあるからアデノイドの時より二倍苦しかったはずだ。手術が終わって、医者は金属の皿にのせて切り取ったばかりの血まみれの扁桃腺を私に見せた。それはとても大きい、と言われた。 私はすぐ扁桃腺をはらして熱発を起こす繊弱な子で、窓ぎわのベッドに寝せられて朝や昼のラジオを聞いていた。それで耳に入ってくる音楽や歌をよく覚えた。「あらしもふけばかぜもふく、おんなのみちはなぜけわし」だの「いきなくろべえみこしのまつにあだなすがたのあらいがみ」だの「はるがきたよとあおいめが」だの「がっきんこんきらぎらろん、がっきんこんきらぎらろん」だのと、何の歌だかよくわからないものまで、乾いたスポンジのように覚えてしまった。今日、それを歌ってみせると、若い人はいぶかしい顔をする。 私はやせていて、幼稚園も小学校も嫌で嫌で仕方なかった。人生全体が嫌だったのだろうと思われる。母や周囲の人々に動かされるままに、わけもわからずいやいや従っていたのである。 公園の砂場で、私は近所の子に棒で頭をなぐられて血だらけになって帰り、医者で何針か縫った。また、別の子と石を投げ合って、石のひとつが先方の右目に命中した。その子は泣いて帰ったが、私にはその黒い石が彼の目にはまり込んだように見えて怖ろしかった。怖ろしさのあまり、母にも言わなかった。私の人生は、怖ろしいものに実に満ち満ちていて、それらの間を、いやいやの登園とか登校とかが埋めているのだった。 小学二年生になる直前の春に、私の一家は中野区江古田という所の2DKの都営アパートヘ引越しをした。中野は今でこそかつての真砂町のようなコンクリートの町であるが、当時はろくに舗装もされていなかった。雨が降ると、車が止まるほどのぬかるみとなり、その横を馬車が肥桶を積んでゆっくり通過した。妙正寺川の土手にはつくしが生えタンポポが咲いていた。そんな風景を私は生まれて初めて見た。 そして私の人生を決定的にしたのが、アパートのすぐ脇の麦畑であった。胸までの高さのまッ青な麦が、つまり新鮮な黄緑色の麦が、はるかむこうのトカゲ山まで続いており、その上には真ッ白い雲が湧いて浮かんでいた。そして、すべての地面は、ふかふかの柔らかさであった! 真砂町の土は、あれは土ではなかったのだ、と判明した。真砂町の草木は、あれは草でも木でもないのだ、と判明した。 私は初めて生まれたようだった! 世界には色があり、世界には風かあり、世界には笑いがあり、楽しさがあるのだ!と判明した。 私の生命は爆発した。毎日、麦畑の麦の列の間を、麦の穂にちくちく刺されながら歩き回った。風が麦の穂すべてを波のように揺らして通るのを、鳥肌が立つような喜びで感じた。私は、麦の間に立つ自分を、誇らしく感じ、誰かに大声で自慢したいように感じた。 私か歩くと、畑のウネの問からヒバリが飛び立った。ハタハタと麦の茎をたたいて飛ぶ鳥がいるなどと、私は知らなかった。今、ゴッホの「ひばり」の絵を見ると、あの時の感動を思い出す。あの絵の、麦の穂先と空との境目には、本当に「永遠」がある。 米軍放出物資がぎっしりつめ込まれた囲いの中には入ってはいけない、入れないようになっていたが、そこへ入り込んで、高くそびえている木に登った。梢近くにまで登ってじっとしていると、麦畑を渡ってきた風がその木を揺らし、私は空の中をゆっくり、右へ左へと揺れるのだった。私は笑いながら新しい友の名を呼んだ。
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スペインは、麦の国である。 ふだん赤い裸の上の色の国であるが、春の一時期だけ、国中が真ッ青の麦の色になるのである。私か日本語風に「とても青い」と言うと、スペイン人は「青じゃないよ、緑だよ」と訂正する。信号の色も、日本と同じ青緑色であるが、それを青と言うと「緑」と訂正される。日本語の語感では、緑よりも青のほうに象徴性かおり、意味も深い。スペイン語ではアスル(青)よりもベルデ(緑)のほうに意味性が深いのである。日本では「麦が真緑で美しい」とは言わない。一方ガルシア・ロルカの詩には、「緑よ緑、おまえを愛す…」というのがある。人々はそれにふしをつけて、歌いさえする。青よりも緑が愛されている。 スペインの麦の緑には大まかに言って、二種類あるセバータ(大麦)とトリゴ(小麦)である。セバータほうが明るく透明感のある黄緑色で、トリゴほうがやや暗い緑色を呈す。 セバーダの畑がなだらかな丘を上下しながら広がっているのを眺めるのは、人生のよろこびである。そこに風が吹き渡り、水の波紋のようになって野を走ってゆくのを眺めるのは、たまらない官能である。セバーダは家畜の餌になるという。しかし、その美しい眺めは、どうしてもああこれがわれわれの日々の糧、日々のパンになるのだ、と思いたくなる。家畜でなく、人間の糧だと思いたい美しさなのである。 人間の糧トリゴと家畜の餌セバーダが互い違いになって、野を二ツの調子に分けて広がっているのも美しい。その間に真ッ赤なアマポーラ(野ゲシ)が点々と咲いている。印象派はこれから点描を思いついたのではないか。 私かマドリードの中心部、緑といえば細い街路樹ぐらいしかないところから引越しをして、郊外の町に移ったのは、長女が生まれる頃であった。二十年以上前だ。 町はずれから麦畑が広かって、それがそのままはるか彼方の雲の下、アンダルシアにまで続いていた(今は団地にさえぎられて見えない) 私はよくそこを散歩した。麦の美しさにつられて、野道を遠く来てしまうと、あつい陽ざかりを同じだけまた歩いて戻らねばならなかった。 麦畑の中に無気味に壊れた古い教会がある。周辺にも住居跡らしい石積みが残っている。町の歴史によると、そこは何世紀か前ペストによって滅びた村であるという。 このマドリード郊外の麦畑はあまりに広く、あまりに平らに、変化もなく、快晴の青空のもと、あくまでも乾燥して遠く、グレードス山脈を越えてアンダルシアにまで続いている。それは、中野区江古田の麦畑のような喜びよりは、むしろ何か、耐えることを強要するような強靭さを持って追ってくるのだ。 突然、トリゴの畑の中、二十メートルほどむこうの麦の穂の間から、裸の男の上半身が現れた。若い肌が汗ばんで光っている。立ち上がったというより、身を起こしたという感じだつた。男はちらりと私を見たがすぐまた身を緑の中に伏せて見えなくなった。よく唄われるフラメンコの唄(カンテ)の文句を思い出して、私は静かにそこを立ち去った。
どうか怒らないで。 マントを持って麦畑へ行こうよ。 そこには鍵も何もないから。
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