ばぶにとっての2016年ってどんな年だったか ③
加齢とともに変化している体力と現実のギャップ。それでもそれなりにペースダウンしつつ日々のマイペースを模索中です。加齢・老化は一方で『熟成』でもあるのです、熟成が止まると腐敗が始まります。なんとみごとなからくりでしょう。天の神様に感謝です。
今年も新たな希望を抱いて一歩を踏み出しました。そしてその先で出会う様々な失望感。 けれども、安易に言い訳を持ち込んだり、他人に責任転嫁の合理化などしたりしない限りその失望の中に見いだせる『もう一つ先の希望』がいろいろ見い出せることを実感した年でもありました。必要は発明の母ならば、失望は希望の父親。 限りある生をいきているのですから縁あって手にした素材の中に、心の目を凝らして取捨選択と優先順位を仕分けしていけばコツコツと「小さな必然性」が積み上がっていくものです。ここを大事にしています。見えたらいいなぁって思って暮らしていると見えてくるものってあります。
伝えたい思いというものがあってそれが相手に伝わるということは一体どういうことなのでしょう。不特定多数に対して『みなさ~~ん』と呼びかけるよりは、特定のその人にフォーカスした呼びかけが大事なのですね。これと並行して前提条件と思われることは、その相手にこちらの思いを聴き留めてくれる感性や品性があってこそ、こちらの届けたい思いが届くのでしょう。私があって、あなたがいるという関係ではなくて、伝えたいあなたがいて、私がいるという関係なのでしょう。
いそがしい(忙しい)ということばは漢字で書くと立心偏に心と書きますね。あまりの忙しさに心無くす…多忙。貧すれば鈍すという言葉があります。一方、それにもかかわらず健気だなあと感じるのは、たとえ忙しすぎても心失わない人が極極わずかですが、確実にいるのも事実です。貧すれども鈍せない人格・気品、それは一体何がそれを決定づけていくのでしょうか。子育ても終わり、この先は自分育て…と心してからもうじき10年。自分の中にまだまだ見いだせていない自分がいます。
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