娘の教育
『スペイン七千夜一夜』福音館書店より 今回の訃報と「堀越千秋集大成画集刊行・追悼プロジェクト」をメールで知らせてくれた娘さんIyoさんのことを書いたものを選びました。
娘の通っている小学校の場所さえ知らぬ父が、こうして。教育”について書くとは片腹痛いわい、と妻は笑うのである。
娘の学校は比較的近所らしい。この学校はカトリック系の私立なのだが政府の援助があるので無料である。公立の学校は先生方にやる気がなくてストライキがやたら多くて休みばかりでダメだ、という近所の母たちの意見に妻が従ったのだ。タダならいいやと私は言ったまでだ。
むかしスペインの貴族の子弟はよく誘拐された。で、保護者が学校の送り迎えをするようになったのをまねて庶民らが隣人に負けてはならじと、それをする。かくて校門前は、一日四回の登下校時、PTAでにぎわう。一日四回というのは、昼食を家でとるためだ。
近所のグループが交替で送り迎えすればいいのに、と思うが、母はわが子のためにのみ存在するのがスペインである。子を放っておいてほかに何をするのか、ということらしい。娘も一日二往復バスに乗って通っており、妻は停留所まで送迎する。私もたまにやるが、母たちに混ざって立つのは苦痛である。
学校が休みの土曜日に、娘は郊外にある日本語補習校に、妻と行く。文部省のやっている日本人学校を借りて、現地校に通う子を持つ親たちがやっている。算数と国語のみを教える。あくまで補習である。
算数は、スペインのやりかたと日本のそれとが違うらしく、娘はときどきこまっている。
たとえば、十引く七、をスペインでは八、九、十と不足分を足して十になるまでの数をかぞえるのである。何だか原始的な感じがする。日本では、十引く七は三と決まっているのに。
スペインの子どもたちというのは、大変に元気のよいもので、先生が何かをたずねると、わかってもわからなくてもハイハイと手を挙げて、前方へ走り出るそうだ。それではとても授業にならないではないか、と思うが、その通り、授業にならないらしい。
そんな中で娘はオールAの通信簿を持ってくるが、あまりあてにならない。それでも近所の子のを見ると、BやCがあったり、落第をしたりするので、娘は成績がいいらしい、と近所や、何も知らぬ日本の縁者に吹聴している。
娘はつまり週に五日はスペインの学校に通い、一日だけ日本人の学校に行く。家の中ではほとんど日本語のみである。こういう環境だと、バイリンガルになる。しかし放っておくと、もう日を追ってスペイン語のほうが優勢となってしまう。今でさえ、どちらかというとスペイン語のほうがよくわかる、と娘は言っている。五歳違いの次女との遊びやケンカは、ほとんどスペイン語でなされている。親たちは執拗に日本語で通している。
以前、日本人の夫婦に子が生まれると、親は自分たちの語学力に自信がないものだから、あせって子にスペイン語を教えたりなどしていた。このごろでは、それが愚行だと当地では周知のことになってきたので、あまり見かけないが。
子は親が案ずるよりはるかに賢いもので、もし子が親より賢くないなら、今ごろ人類は犬猫のレベルまで退化しているはずだ。親が子の教育に密着している日本は、子を退化させているのである。
とはいえ、やはり日本語はきちんと教えないとあやふやになってきてしまう。むかし、家の中でも努めてスペイン語で子育てをしたある日本人夫婦の子は、今やりっぱなスペインの若者だが、残念ながら日本語はアワワの三太郎である。
だから、日本語だけはしっかり教えてくれよ、と私はちゃんと妻に頼んでいる。わが家のしつけは純日本ふうで、スペイン人が何と笑おうが家の中では靴を脱ぐ。私かテーブルに足をのせて食事をすると娘がまねをするが、私はいつも厳しく叱る。