フルコース
『フラメンコ狂日記』主婦の友社より 昼の一時に“カルド″で昼食を僕ら三人におごる、とヘレス出身の幕下闘牛士(メビジエロ)がゆうべ約束したので、唄い手(カンタオール)のマヌエル・アグヘタと若い画家のホアン・コレアはそこへ行っているはずだったが、僕は面倒臭くなってすっぼかした。
“カルド″と通称されるのは、マドリードのクルス通りとビクトリア通りがぶつかるところにある安いバー「イヒニオ」で、年中自家製のカルド(コンソメ)が温まっており、昼食時には簡易テーブルを並べて、当店名物十年一日コシードを安く供する。コシードとは代表的庶民料理にして、つまりガルバンソ豆、チョリソ、肉、ジャガ芋、キャベツ等の煮込み。スペインおでん。フランスに渡ってポトフ。
人の好い老主人のせいでよくアンダルシア人が集まり、セビージャのカンテの名門マイレーナ一族の三男
マノロ・マイレーナが背すじを伸ばしてここでコシードを食っているのを見たことがある。(追記。先年このバーは老主人の引退により閉店した)
さて、その“カルド″の前を、僕は買物の帰りに通りかかった。もう三時近かったので、まさかとは思ったが、ちょいとのぞいてみた。すると、ややッ! マヌエルがパンをくわえてこっちを見ている。店の土間のいちばん奥の小卓に、この暑いのに純毛のイタリア製の上着(いつか見せびらかされたから知っているのだ)を着て、ちょこなんと座っている。むかいには金髪のホアン・コレアが青白い不景気なかおをして、コシードのガルバンソ豆を一粒ずつフォークでつついている。
マヌエルは僕を見ると総金歯の口をあけてゲタゲタと笑い出した。まわりのテーブルを囲む貧しい客たちが顔を上げた。僕も笑う。「アハハハハー おめえら何やってんだ! アハハハ。もう三時になるぜ。約束は一時だろう、まだ食ってるのか?」
マヌエル、笑いながら、「フッハハハハ! 野郎め! あの闘牛士(トレーロ)め! 来やがらねえのさ」
僕「そんなこったろうと思った」
ホアン「おれは寝不足で、低血圧」
マヌエル「フハハハおれたちや一時からここにいて、こうやってゆっくり食ってるのだ。今に誰か来ねえかなッてな。だって金がねえのだ↑・ ワハハハハ。おお! 神はおわします。神はおわしますってもんだ。ワハハハハハ。なあ、ホアン!」
ホアン「うう」
僕「何で?」
マヌエル「おめえが来た」
僕「おれは金持ってねえぜ」
「おお! 神はおわしますウー!」
「おれは買物をして皆使っちまって文なしだァ」
「嘘つけ! ワハハハハよかった、よかった。ワーハハハハハァー ここにおわしまするは世界一金持ちの日本人の絵描きィ! 世界一賢い日本人の絵描きィ!」
笑い声につられて給仕が来、「何か食べる?」
僕『……これと同じ、コシード」
給仕(奥に向かって)「コンプレート一丁!(煮汁をスープとして先に供し、具を主皿とす。で、コシードの完全(コンプレート)飲み物は?」
マヌエル「水だろうが」
僕「…… 水」
マヌエル「ファーハハハハハハ! 水道の水一丁! オネガイネッ!」(給仕引ッ込む)
僕「おめえら一時からここにいるのか?」
マヌエル「そうよ。ちびちびと食ってな」
「幕下闘牛士(ノビジェロ)も来ねえのによ。金もねえのにいい度胸だぜ」
「神がついてるってことよ」
「この暑いのに上衣着てよ」
「ゆうべ、ホアンのとこで寝てて、夜中に急に冷えたんでカゼひいたんだ。ジ、ジーッ(鼻がつまってる)」
ホアン「八月だってのに変な気候だよ。ギリシアじゃ暑さで二千人死んだってさ。今度は寒さだ」
僕「なぜこうだか知ってるか?」
ホアン「チェルノビルだろ」(チェルノブイリ原発事故)
「そーさ」
マヌエル「何だそれ?」
ホアン「この春ロシアのチェルノピルというところで、何ていったっけ?――原爆みていなのが破裂したのさ。何て言ったっけ?」
僕「……原子(ヌクレアール)のだろ。原子のが爆発したのさ。原子の」
ホアン「……」
マヌエル「何だそりゃ。爆弾か?」
僕「そんなようなもんだ」
マヌエル「そんならビルバオとかバルセロナとかでもしょッ中破裂してるだろうがな」
僕「そんなんじゃねえ。みろ。2メートルぱかしの爆弾がひとつこの辺に落ちてみな、マドリード全市がお陀仏なのさ」
「ふむ」
「むかし日本に落ちたんだ。二ツな。ひとつでひとつの都市が全滅したんだ」
ホアン、ガルパンソ豆つつきながら目をあげていう。「ヒロシマだろ」
僕「ヒロシマとナガサキ」
マヌエル「アメリカが落としたんだな」
僕「そうだ」
マヌエル「日本は今そのアメリカのために働いてるんだぞ! アメリカが世界一金持ちだからな!」
僕「日本だけじゃねえ。スペインだってそうさ」
マヌエル「アメリケ! 世界一!」
僕「アメリカの大統領誰だか知ってるか?」
マヌエル「リーガン」「わはは、知ってやんの」「当たりめえだ。おれは奴と写真をとった。並んでな」「ウソだろ」「本当だ。今度見せてやる。大きく伸ばしてな」「どこでとったんだ?」「ヌエパ・ジョー(ニューヨーク)だ。道を歩いてたんだ」「あはは! そいつはニセ者だわ」「本物だわい!」「そっくりなだけさ」「奴の女房もいたんだぞ!」「そいつもそっくりなのさ。大統領の本物が町をうろついて写真をとらせるかい!」「本物だわ、バカタレ! おれはその女房と寝たんだ。まちがいはねえ!」「カハハハハ」「本物だ!」
コシードのスープが来た。飲む。
マヌエル「うめえだろ?」
僕「ああ」
マヌエル「パンも食え」
ホアンはもうコシードの豆をつつき終えて、マーガリンの空き箱に入った当店製のナティージヤ(ドロドロ状のプリン)をさじですくっている。
僕はやがてスープを終え、コシードの皿も終えた。給仕が来る。
「デザートは?」
僕「いらない」
どうせおれが払うのだ。こいつらめ今回は本当に金がないらしい。まあお互い様だ。せめて水でも飲もう。もう一杯水をもらって終わりとする。
左:筆者 中央:マヌエル・アグヘタ マヌエル「さア、払えや。行こうぜ」
僕「足りるかなあ。おれはこれしかないぞ」
ポケットを探ると千ペセタ札一枚、五百ペセタ札一枚、二百ペセタ札一枚があった。マヌエルそれをサッとうばいとり、「足りる足りる! さア、お勘定ね!」と叫ぶ。カウンターの向こうから、肥った気のいい老主人が、「千二百ペセタ(約千五百円)なりィ」。千二百? すると一人四百ではないか? するとホアンの食ったナティージャはどうなんだ? ひ、ひょっとしてデザートもセット料金として含まれているのではないか?! こ、これはしたり! それとも主人がつけ忘れているのか……。損した気持ちでうなだれていると、マヌエルが、
「よツ、ホラ、おめえは残りをとっとけ」と、二百ペセタ札を僕によこし、千ペセタ札と五百ペセタ札をカウンターにぴたぴたと並べた。直感的にまた何か損をしたような気がするので、僕はとっさにぱッと手を伸ばした。が、奴が一瞬早くそれをぐちゃっと握り取って果たさず。で、一転、僕は賢げに言った。
「おい全部で千二百だろ。ほら、だったら五百札よこせよ。おれはここに二百札持ってるんだ」
マヌエル「それじゃ二百札よこせ。五百札やるから」
僕「ほらよ」
するとマヌエルは、「よし。はい。これで千と二百ね」と主人に手渡し、五百札は自分で握り込む。
「あッ、てめ、汚ねえぞ」
「ファハハハハハ、落ちつけ、落ちつけ」
「それはおれんだ!」
「ファハハハハ、よし、じゃ半分コしよう」
とて、汗ばんだ五百札をピリピリとまッ二つに破いた。ホアンと僕がワツと叫ぶと、となりの卓で食っている初老の貧乏人がのぞき込んで陰気に声を出す。
「そいつはダメだ。もう使えない」
マヌエル「ヘッ。使えらあ! 二人で片方ずつ持ってて、またあしたねって合わせりゃ使えるんだ!」
僕「それは恋人とやんなよ」
貧乏「ダメだ。ダメだ。使えない」
マヌエル「使えるわい! 今使ってみせてやる。サッ、行こうぜ。今度はおれのおごりだ。コーヒーのもう!」
僕「おれの金でおめえがおごるのかよ」
三者騒ぎつつ行く。道の向こう側に、ずらりとお化け屋敷みたいに怪異な娼婦たちが並んで立っている。それに向かって、
マヌエル「オーイ!」
中程で特に肥った一人が声を返す。「ヘヘ、またくれるのかい?」
マヌエル「そーだ。こっちへ来いよ」
女、うれしそうにこっちへ来る。
マヌエルは、「ホラよ」と言って手に持った二十五ペセタ王を女に渡す。女はそれを受けとり、
「よしよし。今度は誰だい?」
「こいつさ。日本人だぞ」
女は、よしよし、ホラホラ、と言いつつ、その硬貨を当方の股間に当てがおうとする。僕は「わツ」ととびのく。一同「わーはははははははは」
マヌエル「どうした? きらいか?」
僕「明日にしとこう!」
また一同わァはははは。歩き出してふり返ると、おばけ屋敷一同、おいでおいでをしている。
サンタアナ広場付近の冷房付きのバーヘ入る。
マヌエル「カフエ・ソロ。おめえら何にする?」僕「カフエ・コン・レチエ」(ミルクコーヒー)ホアン「コルタード」(ミルク少し入りコーヒー)
マヌエル(給仕に)「ちょっとききたいんだが、この五百札を、この日本人のばかたれが破っちまってこのとおりだ。使えるかね」
僕「それはてめえが破いたんだろ!」
「おめえだ!」「てめえだ!」「おめえだ!」「てめえだ!」
給仕はフフンと笑って、カウンターの上にぴしゃりと音をたててセロファンテープを置いた。
冷房バーを出ると、不景気づらの低血圧のホアンが青白くも、「どっかにちょっと座ろうぜ」
と言うので、すぐ脇のマヌエル・フェルナンデス・イ・ゴンサレス通りという短い、車の通らない道に出ているカフェテラスに座る。三者、おろかに疲れて、しばらくポーツと黙ってすごす。と、やおらマヌエルが始めた。回復が早い。
「人生はおま○○だッ!」
(そう。おまつりだ)
隣の卓に座っていた男が、読んでいた新聞から目を上げて、マヌエルの演説を眺める。
マヌエル「アメリカの女はどーのこーの。日本の女はどーのこーの」
新聞男はやおらマヌエルに新聞を黙って差し出す。マヌエルは差し出された新聞を風景を見る目でうつろに眺める。「何だって書いてあるんだ? あんた読んでみなせえ」
新聞男「――わが国の、継親と継子の五〇パーセントの間に家庭内性交渉がある、ってさ」
マヌエル「何だそりゃ?」
男は説明しかけるが、マヌエルは「ふん」と言ったきり、また自分のテーマに戻る。
「日本の女は皆ブスだッー・(わっ! 言ってしまった! おまわりさん、こいつは日本の言論統制を知らねえんだ。ゆるして下せえ)でもたまには美人がいて、そ-いうのはフィリピンとの混血なんだ」(筆者は知らない。お説を拝聴しよう。我々は西洋文化の摂取に明治百年を励んで来た者だ)「――日本にもそりゃ美人はいる。しかしだ!」隣の卓からニヤニヤしながらもうこっちの卓へ移って来てしまった新聞男の二の腕を、トン、とたたくマヌエル。日本の講釈師が合間に入れる扇子の音の要領だ。「しかしだ! おお! いいか、もしあんたが、その美女と一度でも食事をしたら! おっ! ふう!・(トン)彼女をベッドに残してあんたはうちへ帰っちまうね。なぜかって? え、知ってるか?(トン)あんた、知るわけないだろうが、彼女らのメシの食い方ったら!(トン)こうやるんだ(と、首を前に突き出して、左手に灰皿、右手でハシをもつマネをして、灰皿の中のものをロ中にすすり込むマネをする)。シュシュシュシユシュ! その早えこと! シユシュシユシユシユ! おれはもう、どうしたのかと思ってまわりを見回したもんだぜ(見回す)。こうさ。シユシユシユシユッ! おっ! ふう! 吸い込むんだ。こうだぞ。シユシユシユシユシユシユッ! ベッドよさようならってなもんさ。ふう」
茶漬けでも食べてる女性を目撃したのであろうか。僕は、奴のそのマネがあんまりうまいので笑いこけてしまった。
にしても西洋人たちは(ジプシーのマヌエルが西洋人かどうかはさておき)往々にして、こうして東洋の風習を笑うが、我々は西洋の風習を見ても笑うどころか、恥じて我が風を捨て、もっぱら西洋の真似ばかりしてきた。――何故かな? 皆さん、メシを吸い込む美風を大切にしましょう!
新聞男は半信半疑であいまいな笑いを浮かべている。それがまた僕の笑いを誘って、狭い道路はマヌエルのわめき声と僕の笑い声でひびきかえった。それに誘われてひまな通行人が立ち止まって、マヌエルの「実話!」を聞いていく。と、一人の小柄なアル中らしい老人が楽しそうな騒ぎを聞きつけて、ヒックヒック言いながらやってきた。
マヌエル「オレー! アルティスタ! 闘牛士(トレーロ)! 座んなせえ、座んなせえ」
アル中「うぐッ。うう、座ろうかい(座り込む)。うう。何だ、皆の衆、何も飲んどらんな(もう皆一時間も前に飲み終えてる)。いかんぞ、飲みなせえ飲みなせえ。わしのおごりだ」
マヌエル「よツ、皆何飲む? このトレーロのおごりだ!」(こういう対応が誠に素早い)
たちまち給仕を呼びつけ、新聞男「あたしはカフェ・コン・レチェ」マヌエル「おれはカフェ・ソロ。熱くしてなッ」僕「コルタード」ホアン「ビノ・プランコ」(白ワイン)と、またそれぞれに躊躇なく。
マヌエル「オレー! 人生はおま○○だッー」
アル中「よッー それよ(エス・エー)! 渋いぞ(トウ・サベ)!」
マヌエル「ワーハハハハ。昔おれがどこそこでよ、女にもてた時はよ、どーのこーの」
皆が呆れつつもマヌエルの講釈を聞いている間に、このアル中老人はおもむろに卓のはしから黙ってよろよろと立ち上がり、立ち去る。やがてさきほどの注文の飲み物が来る。皆は、マヌエルの話に生返事をしながらも横目でアル中老人を探すが、彼はもういない。もはや懐中一文無しの僕は、太平楽な気分でカフェーを喫す。
ふと、向こうから若い男が一人、血相かえて走って来た。一目でモロッコ人だと判るちぢれ髪の、色浅黒い若者は、美しいばかりにこわばった真剣なる無表情の額に、玉の汗浮かべて全力疾走して来る。スペインで走る者。つまり、泥棒だ。
「そーら、来た来た来たッー」と言う間もなく走り過ぎた。すぐその後から角を曲がって茶色の制服の若い巡査が飛び出して来た。こちらは珍しくも「職務」にゆがんだ恐ろしい顔をして、両手をそれぞれ腰の拳銃と警棒に当てがってすっとんでくる。早い。
前者、後者ともに僕らのいるカフェテラスのテーブルすれすれに走り抜け、カドをひょいと曲がったところで声がかかった。巡査が拳銃を抜いたのだ。
「アルトッ!」(神妙にしろ)
はさみ打ちだ。――二人の巡査にひったてられ、後ろ手に手錠をかけられたアラプ人青年が、殉教者のように昻然とした表情で連行されて行った。道の脇に立ち止まって見送る通行人の誰かがささやいた。
「モロ(モロッコ人)だ」
マヌエル「マドリードも困ったもんだて。このごろはよ。ああ! フランコがいればなあ。フランコがいりゃ、ああいうのは許しちゃおかねえ! ああいうのは懲役十年だ! 十年(ディエ・アーニョ)!十年(ディエ・アーニョ)! フランコがいりゃア、十(ディエ)フランコだッ!」(と、間違えて叫ぶ)
それを聞いた通行人が眉をひそめる。
フランコ時代、「自由(リベルタ)」は禁句だった。今、「フランコ」は禁句なのである。いつだって禁句はあるし、いつだって禁句を叫ぶ者はいる。そして、禁句ゆえにわざとそれを叫ぶ奴も、また、ここにいる。
そばにいた給仕が、気の抜けたように笑う。
「ヘッヘヘヘ。十フランコだってよ」
十フランコとは、フランスの十フランという意味でもある。
貧しいフルコースのチップとしては、ちと高い。