嗚呼、カルメン!
『スペインうやむや日記』集英社より 美女を見た。
美女を見てしまった。
いっぞや御紹介を致したのは、象のような美女で、一風変わった美女であった。但し、今回のは本物、というか万人向きというか、いやいやそんなもんじゃない、とにかく素晴らしかったのである。
在日日本人であられる読者諸賢におかれては、スペインはさぞや美女だらけなのに、といぶかしく思われるかもしれないが、中々どうして、スペインに真の美女は誠に少ないこと、日本以下である。
実のところ日本は、私はこれっぽっちも下心を持って言うのではないが、世界に冠たる美女の国である。諸賢におかれては、見慣れた故国の女性ゆえ、遠国の女は鼻が高いだの、目が大きいだのと、隣の芝生根性によって欧米人をまぶしく見がちであるが、ほほほ、愚かな。
その教養、何にでも興味を示す先進性、受容性、多様な個性、謙譲の美徳などにおいて、中々日本女性のような女性は他国に多くない。謙譲の美徳、なんていうと首を傾げたまま元に戻らなくなっちゃう人がいそうだが、しかし例えばスペインの女性などに比べたら、日本のすぐに「むかつく」ところの若い女性でさえ、もう謙譲謙譲大謙譲、美徳博物館に入れてミイラにしてとっときたいくらいのもんで。
スペインの町でキョロキョロしている日本人旅行者たちは、「いやァ、スペインは美人が多くて結構ですねえ」などと言いがちである。おまけに「いやァ、スペイン料理も日本人の口に合ってるし」とも言う。「オリーブオイルがどうのこうの言いますが、いやア、私は大丈夫です、おいしいですよォ」とも言う人がいる。じゃ、今後みそ汁も白飯も一切やめて、毎朝パンにオリーブオイルとマンテカ(ラード)塗って食いなよ。あんたの好きなイカのリング揚げ、二週間毎日揚げて使ったオリーブオイルであんたの好きなスペインーオムレツこしらえて食いなよ。皿からこぼれそうな豆と豚の脂身のスープに、さらにオリーブオイルどぶどぶかけて食いなよ、アンダルシアの貧乏人みたいに。皿からはみ出してテーブルに垂れてるアビラの牛肉、食ってから、べろべろに甘いサンティアゴーケーキ、手のひら二枚分のやつ、全部食いなよ、マドリードの中年おやじみたいに。
そういうわけで、私は、スペインの女というものは、御免をこうむる。胸が焼ける。
誰に許されて、彼女らはあんなに威張っており、我がままであり、傍若無人であり、シリメツレツであり、没論理的であり、没個性的であり、保守的であり、ヒステリックであり、お行儀が悪いのであろうか。
スペインでは夫が一家の財布を握っている、というのは常識である。日本のちょうど逆だ。「女房なんかに財布を渡したら、たちまち浪費してしまうからだ」と、スペインの夫も、妻も、口をそろえて言うのである。丁度日本で、「亭主になんか金持たしといたらたちまち飲んじゃうわよ」と言われて、亭主も苦笑してそれを認めるようなものである。特に、スペインの妻というものは、財布を持ったらたちまち服を買ってしまう、とはよく言われる。
現に、先のスペイン国営放送の長官であったピラール何某女史は、公費で沢山の私服をあつらえて大問題となった。女史いわく、「いえ、あれらの服は私が使ったあと、女子職員達に配ってあげるのよ」
没論理。シリメツレツ。我がまま。もひとつ加えると、おすまし屋さん。
スペインの、女大臣、女市長、女長官、等々、女性の役人の。長”というものは、えーッ、このひとどこの女王様ッ!? というくらい、みんな同じように、法王よりも偉いみたいに、ふるまう。つまり、ツンと遠くを見て、首を動かさず目だけをゆっくり動かし、笑わず、ごくまれに微笑み(それも時期を逸しそうになるころ)、原則だけを大儀そうに、容赦なく、一度だけ、述べる。気取った没個性。
下々のおばさんたちも、没個性という点では全く同じで、市場やバスにおける列の割り込みを、特技とする。皆が同じ芸を特技とすると、どんなことになるかというと、別にどうということはない、日本の男が皆ゴルフを特技とし、日本の若い女が皆英語を特技とするようなもの。但し当地では、それら特技が全国的に日常の場で発揮されるから、つまり国技。市場は女の闘い、バスの列は男の諦め、である。ゆえに、私は、絶対に市場に行かない。バスにはうつむいて乗る。
あるインテリのスペイン女性が、私に打ちあけた。
「夏が終って、バカンスからの帰り、飛行機でピレネーを越えて赤い土が見えてくると、あーあ、また闘いが始まるのか、つて思うのよ」
日本の亭主というものは、仕事の帰りに仲間と焼鳥で一杯、という楽しみがある。スペインの亭主がこんなことをやったら、どうなるか。放置されて怒り狂った妻が、玄関でバケツに水をくんで立って待っているであろう。まして、午前様になったりなんかしたら!
スペイン女と結婚したこともない私が、なんでこんなことを言えるかって?
もし結婚していたら、怖くてとてもこんなことぺらぺら言えませんや。
こういう国では、男が忍耐強くなる。日本みたいに男が威張ってると、女が忍耐強く、賢くなる。
かくて世界に冠たる美女国となるのである。では、スペインの男は? かくも没論理で我がままでヒステリックで虚飾の女達に育てられ、共に生きねばならぬスペインの男は?
――皆ホモになっちゃうのである。
こんなにスペイン女性の悪口書いていいのかって?
大丈夫ですよォ。私はスペイン男の代弁してるだけだし、第一、彼女ら日本語読めっこないし、まれに読める人がいたって、少数ですから。少数意見は無視するってのが民主主義ね。少数意見が暴れたら、警察ね。
もちろん、常に例外は存在する。
それが、本橋の主題なのである。
さて、1 が見た見たと騒いでいる美女は、おそらくジプシーの血を持っているであろう。家父長制強き、アンダルシアのジプシーの血を。嗚呼、その姿と物腰を、いま思い出すだに溜め息が出る。
ところは、ラーリネアという町。つまり、かのメリメの小説『カルメン』の舞台ともなった、ジブラルタルである。イギリスという国は本当にアコギな国だなァ、と実感できるのが、ここ英領ジブラルタルである。パスポートを示してゲートを越えるとイギリス。そのこっちは、ラーリネアというスペインの田舎町。
ジブラルタルに用があるという友人達と一緒にゲートを越えようとしたが、私と、フラメンコーギタリストの俵君はパスポートを持参していなかったので、ラーリネアの町で二時間程待つことになった。
まァピールでも飲みながら、かのヘラクレスの柱にたとえられる海抜四百メートルの大岩壁(ペニョン)を眺めようとて、道にテーブルを並べたカフェテラスに座った。
飲み物を頼む前に小用に行き、戻った俵君が、「ここのカマレラ(ウェイトレス)、かわいいですよ」と、月並みなセリフを言った。
もともとヒマな身の上だから、どれどれとて、私も小用を足しに中に入った。スペインの酒場(バル)のトイレによくあることだが、鍵をいちいちカウンターで借りなければ扉が開かない。一旦トイレの前に立ってそれが判ったので、私は鍵をもらおうとてカウンターの方へ歩み寄ろうとした。と、その内側で洗い物をしていた女性が、手が離せないので目顔でカウンターの上を示した。そこには、先程俵君が使った鍵があった。
その女性こそは、嗚呼! メリメの小説のカルメンもかくや、と思われる、年のころ十九くらいか、肌浅黒く、しかも弾むような表情と身体つきの美しい女であった。
微笑を含んで大きくうるんだ真ッ黒い瞳、その目の配り、頬の筋肉、肉付きの良いくっきりと両端の締まった、しかも大ぶりな口、引き締まって広い額、真ッ黒な髪、などから、いっぺんに私は全てを悟ったのであった。ああ、何たる柔軟な筋肉、赤い肉、紅の血潮!
カウンターから鍵を取ってトイレを開け、私は気もそぞろに小用を足し、手も洗わずに(スペイン人と同じだ)鍵をカウンターに戻し、彼女に向ってたったひとこと言った。
「グラシアス(ありがとう)!」
間抜けですな。彼女は、「どういたしまして」と答え、そのくっきりとした唇をにッと耳の方へ吊り上げた。その歯の白いこと。口が鮮やかに開いて耳まで裂けること(日本だと化け猫の形容になっちゃうけど)、その美しいこと! うッそォ! こんなの見たことない!
そのまま、おろおろとテラスの席に戻り、俵君に「すげえ!」と告げた。「あんなの見たことねえよ」
まず、その気の配り方。洗い物をしながらも誰がトイレに行くかをちゃんと見ており、鍵の所在を教えるその機敏さ、親切さ。
手をあげて呼ぶとすぐに反応して、身も軽く、しかも急がず席へ来てくれる優しさ。「何だそんなこと」と言うのなら、十年二十年、スペインの女にひどい目に遭ってからにしてくれ。な、俵君。
わずかに幼さの残る、しかしれっきとした若々しい切れ味の短いひと言ごとに、発声の喜びがあふれている。やや低目の魅力的な声。
そして何より、彼女のセンスの良さ、独特さ。黒く長い髪を、前髪を残して白い粗いレースのネットで包んでいる。このネットはアンダルシア風だが、古風で珍しい。形の良い耳が可愛い。白い半袖のブラウスはごく地味な開衿だが、浅黒い肌にまぶしい。ズボンは折目の通った黒。普通のデザインだが、ほっそりとして引き締まっているくせに柔らかそうでもあるお尻を包んで、これもまぶしい。
そしてその靴! 三センチくらいの低いヒールの、しかしエナメルでピカピカに光っている黒。
つまり、身にまとうているのは白と黒だけなのに、その一五八センチ程の身体を比類ないものに見せている。そして、彼女を世界一の美女と叫ばしめるものは、その躍動感、気配り。小股の切れ上がった女とはこういうことか! と思わせる、優しさ、シャープさ、笑顔。スペインで唯一人1
彼女がリズミカルに軽やかにテーブルの間をぬって、銀盆にビールやコーラをのせて運ぶのを眺め、客だちと交わす手短な会話を聴き、その笑顔にわが心のスポンジが湿り気を帯び、眼福と同時に、通り過ぎるだけの旅人の悲しみを覚えつつもあったひとときから我に返り、さて、そろそろ約束の時間、行こうか、と勘定をすべく彼女を呼んだ。すぐに彼女は私達のテーブルに寄りそい、「シ?」と短く問い、蝶のように優しく控えた。俵君が、「お勘定を願います」と言うと、彼女は「ビール二杯、二百八十です」と言った。私は、このまま去るのは嫌だ! と強く思い、「僕はもう一杯ビール下さい」と言った。彼女はにこッとその唇を耳まで裂いて微笑み、「それじゃ、四百二十です」と言った。何といとしくも、この計算の早さ! すると俵君は「じゃ僕も」と言った。彼女は思いがけなくハハハと笑い、「じゃ、えーと五百六十です」と言って、弾力のある頬をくりッとさせた。私がボーとそれを眺めている間に、俵君が払った。私は慌てて口を開き、かろうじて、「あなたはとても美しい」と言った。彼女は、再びその柔軟な唇を伸ばして笑い、「グラッシア」とていねいにアンダルシアなまりで答え、ほっそりした背を伸ばして奥へ戻って行った。
わなわなとカフェを出、ゲートの前で友人達が出てくるのを、アイスクリームをなめながら待った。ふと、俵君が言った。
「もしあの子に、セビーリャかどっかで偶然会ったりしたら、運命を感じるでしょうねえ」
私は、ぐわッと叫んで、路上にバタリ、と倒れた。ちょっと大仰なギャグだったが、正にそんな気持だった。俵君は笑い、また言った。
「で、またマドリードで会っちゃったりしたら!?」
私は、またぐわッと叫んで路上に倒れ伏した。(私、四十七歳既婚です。)そして私はついに言ってしまった。
「結婚申し込んじゃうね!」
なるほど、スペインの男たちはこうして「唯一の例外」と結婚してしまうわけか。