―人間性復興をめざす文化の逆襲―はじめに ただいまご紹介に預かりました村田でございます。私は師友塾から『パーセー』を送っていただいていまして、皆さんのご活動はよく存じております。大越先生からはよく便りをいただきます。私は「命に火をつける教育」という言葉に非常に魅せられています。そして、師友塾がされているお仕事は、命懸けのおつとめではないかと感じています。私は、その師友塾にエールを送るために、今日参上した次第です。
ただ、私かここにおりますのも、ある意味では偶然ではなく必然ではないかと思っています。と申しますのは、私は今、日本での原発大事故による破局的な大惨事を避けるため、原子力のタブーを破ることに全力を注いでおります。これも、命懸けの仕事ではないかと思っているのです。
最近の世の中は、新聞を見るのが嫌になるほど不祥事が多発しています。特に、アスベスト被害、マンションの耐震偽造、人身事故に至る欠陥自動車、それから保険金未払いの問題など、本当に恐ろしくなります。
私は原子力発電所にも厳重な審査をしなければならないという確信を持っています。しかし、その安全を確保する監査機関が、原発を推進する経済産業省の傘下にあるという事態を見ていますと、異常な問題だという念を深くしています。
感性こそが大切 私は三年前に、原子力に象徴されている「日本病」を国民に認識してもらいたいということで、『原子力と日本病』(朝日新聞社)という本を出版しました。「日本病」とは、簡潔に言えば、責任感の欠如、正義感の欠如、倫理観の欠如、という「三カン欠如」のことですが、これが今日、日本のみならず世界的規模で見られるというのが実情ではないでしょうか。そういう中で、私は、世の中を悪くしたのは「感性不足」であると思っています。
四年前に出版した『新しい文明の提唱』(文芸社)という本の表紙の裏側には、チャップリンの言葉を引用しています。
「我々は考えすぎて、感ずることがあまりにも少ない。我々が必要としているのは機械よりも人間愛であり、利口さよりも思いやりと優しさである」という言葉です。これは私の非常に好きな言葉で、『原子力と日本病』の表紙の裏にも同じ言葉を引用しました。
それで師友塾の発行している月刊『パーセー』を見ていましたら、芳村思風先生が私と全く同じことを言っておられるのを見つけました。実務の道から達した結論が学術の世界での結論と同じだったということで、早速先生の本を読み、非常に意を強くしました。そういう例でも分かるように、私の考えは師友塾の理念と一致するところが非常に多く、私は今日ここに参りましたのも決して偶然ではないという感じがしているわけです。
「感性」の大切さを表す言葉で、サン=テグジュペリの『星の王子さま』に私の好きな言葉があります。星の王子さまとキツネの会話の中で、「肝心なものは目に見えない。心だけがこれを見ることができる」という言葉が出てきます。チャップリンといい、サン=テグジュペリといい、やはり偉大な映画監督や作家は見るべきところを見ていると感じます。
私は教育の問題については、もっと感性を重んじるべきだと思います。医師が専門的な立場で書いたある本には、「感性は右脳にあり、右脳には先祖からの知恵が全て入っていて、皆、平等だ」と書かれていました。ですから、右脳の中にはまさに生きる力が入っていて、右脳をどう開発するかが大きな問題になるわけです。私はここで、日本で古くから言われている二つの言葉を思い出します。それは、「かわいい子には旅をさせよ」「若いときの苦労は買ってでもせよ」という二つの言葉です。地道な努力の積み重ねによって右脳を開発していくことできるという意味で、色々な挫折や失敗が右脳の開発に役立つのではないかと感じます。
それから、私の好きなもう一つの言葉があります。それは、「職業に良し悪しはなく、生き方にこそ良し悪しがある」という言葉です。
先ほど述べたように不祥事を始め、危険があまりにも多い社会の現状に、大人の世代としての連帯責任を感じます。しかし、皆さん方は「感性」を磨くことで必ず世のため人のために貢献できる市民社会の一員になれるということを、私は確信します。
人生の方程式 もう一つご参考に、二つの人生方程式というものをご紹介します。
一つ目の方程式は、京セラ名誉会長の稲盛和夫さんのもので、「人生の結果=考え方×能力×情熱」です。情熱と能力は、0点から100点まであり、お互いにカバーすることができます。例えば、多少情熱がなくても、抜群の才能があればカバーできるのです。しかし、考え方はマイナス100点からプラス100点で、掛け算ですから、どんなに能力が優れ、どんなに情熱があっても、考え方が悪いと、とんでもない数値になることがあります。
これが、今起きている社会事象ではないでしょうか。考え方が悪い代表的な例は、六百万人のユダヤ人を虐殺したヒトラーでしょう。彼は彼なりにたいへんな才能と情熱がありましたが、その考え方が大きなマイナスであったのです。よい考え方を持つのが最も大事なことだと思われますが、それは「感性」なしにはできないと思います。
二つ目の方程式は、仏教の基本原理とも言われている「幸福=富÷欲望」です。今の市場主義経済ではその富を最大にしようとします。しかし、地球も資源も有限であるわけですから、その中で、幸福を大きくするためには、欲望を小さくすればいいことです。この方程式には、後ほど述べたいと思っている「足るを知ること」「小欲知足」の大切さが見事に示されていると思います。インドの偉人ガンジーは、「地球は全ての人の必要を満たすことはできるが、全ての人の貪欲を満たすことはできない」と言っています。これは今の時代にあてはまる名言だと思います。英語では、必要は「ニード=need」で、貪欲は「グリード=greed」ですから、韻を踏んで非常に強い印象を与える名言です。
日本の理念 本題に入る前に私か好きな言葉をご紹介しましたが、私か今、日本の理念として世界に発信できると考えるものが二つあります。一つは、「地球の非核化」です。原子力を地球上からなくすという、核の廃絶です。それも、軍事利用の核兵器の廃絶だけでなく、民事利用の原発もなくさなければいけないということを訴えています。
もう一つは、今日の本題である「新しい文明の創設」ということです。私は、自分の意見を1、2ページにまとめて、それを政策決定者をはじめ市民グループなどあらゆる分野の人に送るという活動を続けています。政府と市民社会の橋渡しが、私の使命だと思っています。これからは、各々自覚を持つ市民社会が発達して、政府に影響を与えて政策をよくしていかなければならないと確信しています。そのために、国際会議にも出て、国内では大学で週二日の集中講義をしています。その他の日はこのように講演活動などを続けています。
未来の世代の代表 私は今、「未来の世代の代表」を名乗っています。この言葉は、スイス大使時代に、最初は冗談交じり言いましたが、スイスの方々から非常な激励をいただき、隣国を含めてあちこちから講演依頼が入るようになりました。そして、今はまじめに「未来の世代の代表」だと言うようになりました。これを名乗るとたいへん勇気がわきます。政治家のサポートをするのはせいぜい選挙区の人たちですが、「自分は、若い人たち、選挙権のない人たち、これから生まれる人たちを代表するのだ」と思うと、誰の前に立っても臆することなく対応できます。
最近の国際会議では、六月に、スタンフォード大学でのOBサミットに参加しました。
OBサミットというのは、福田赳夫総理が創設者になってつくった元大統領と元首相からなる会議です。私のように反原発を唱えるような人間は、これまで政治的にレッテルを貼られ、 門前払いを食わされてきました。原子力のタブーを破りますと、社会的に不利益を被る仕組みができているのですが、私はこれに挑戦しています。その私か、福田康夫前官房長官と一緒に今回の会合に招かれたということは、底流における一つの重要な変化の表れだと思っています。
その前の三月には、同じカリフォルニア州のサンタクララ大学で専門家会議が開かれ、六月のスタンフォード大学での総会の準備をしました。サンタクララ大学の会合で、私は一つの主張を声明に盛り込むことに成功しました。それは、人権とは「未来の世代の人権も含めて考えなければいけないということです。議長をしていたオーストラリアの首相が、これは議題に馴染まないと言って抵抗していましたが、スタンフォード大学の若い研究者が熱烈に支持してくれて、その文言が入ったのです。
私は、「未来の世代の人権」を最も踏みにじるものは、原子力だと思っています。なぜなら、人類はまだ放射性廃棄物の処理法を見出していないからです。プルトニウムの毒性が半分になる半減期は二万四千年で、その十倍の二十四万年は管理が必要になります。ウラニウム238は半減期が四十五億年で、これが劣化ウラン弾としてイラクで使われました。私はこのようにほぼ永久に有害なものを未来へ垂れ流すことは、倫理の根本に反すると思っているわけです。しかも、原子力は放射能という生殖器を害するものを生み出す、まさに未来の世代の人権を無視するものですから、私はぜひともこの文言を入れてもらいたかったのです。
私は六月のスタンフォード大学での総会には招かれないだろうと思っていましたが、スペシャルゲストとして招かれました。最終声明を論議しているとき、アメリカのあるスペシャルゲストが、まさに私か入れてもらった文言を削除すべしと主張しました。どこかから手が回っていたのだろうと思いますが、私か強硬に反対して、事なきを得たのです。
私の先輩であるユネスコ (国道教育科学文化機関)の松浦晃一郎事務局長とも話しましたが、ユネスコも数年前に未来の世代のことを考えなければいけないという声明を出しています。そこで私は、今後大いに協力したいということを申し入れたところ、最近、事務局長から彼の発言を集めた本が送られてきました。
「未来の世代の人権」については、今後も国際的に伝えていきたいと思っています。最初は、「未来の世代の代表」と笑いながら言っていたことを、今やまじめに言うようになり、その未来の世代のためにOBサミットで一役果たすことができたことを、私は誇りに思っています。
天の摂理 十一月十二日に、『新しい文明を築く』というテーマのシンポジウムが、四千人を集めて東京フォーラムで開催されました。五井平和財団というところが主催しましたが、その会長は西園寺昌美さんという私の本(『新しい文明の提唱』)のあとがきを書いていただかた人です。そのシンポジウムには世界各国から著名人が来ましたが、その中には旧ソ連のゴルバチョフ元大統領もいました。『パーセー』で存じ上げていた筑波大学名誉教授の村上和雄先生もおられました。村上先生は、笑いと感動が遺伝子を目覚めさせるというお話をされて、非常に好評を博していました。
こうした会に出るたび、私は自分が師友塾の理念と同じような考えを持っていることに気づき、今日ここにこうして立っているのは決して偶然ではないという感を深めているわけです。師友塾は「命に火をつける教育」を実践されていますが、私は、命に外からの火が追っている危ない状況下で、内からの火でこれを追い払わなければならないというように解釈しています。そういう覚悟で、これからの社会をよくしていくことに、皆さんと力を合わせていきたいと思っています。
私は決して悲観していません。私は「天の摂理」というものを信じています。天の摂理とは、学問などでは立証できないものだと思います。しかし、悠久の歴史がこれを立証しているのを、日本人ならすぐ納得できると思います。『平家物語』の「盛者必衰の理(ことわり)」という言葉が、それをよく示しています。
アリストテレスは、「全ての人を一時の間、偏すことはできる。一部の人を永遠に編すことさえできるかもしれないが、全ての人を永遠に偏すことはできない」と言っています。
私は、これは天の摂理を説明した言葉だと思います。全ての悪事は発覚します。時間の問題だと思います。今、人類は危機を迎えていますが、天の摂理がこれを救ってくれると思います。
私かこれから述べることは、理想論に聞こえるかもしれません。しかし、実利を求める立場からも、これからご説明する理想を実現しなければ、今や世界そのものが存続できないところまできています。理想と現実は紙一重であり、天の摂理が我々に未来へ希望を持つことを許しているということで、私は人類の将来に対して楽観しています。たいへん前置きが長くなりましたが、今日の本題に入っていきたいと思います。
グローバリゼーションの光と影 今日のテーマは、「新しい文明を求めてI人間性復興をめざす文化の逆襲-」ということです。そこで、現代文明の現状と文化の逆襲の必要性について、述べていきたいと思います。
現状では、世界は理想を失って、未来への不安がどんどん強まっています。私は多くの指導者と話す機会がありますが、「もう人類は、滅びるのだ」と言う人があまりに多いことに、たいへん悲しみを覚えます。先ほども紹介したサン=テグジュペリは、「我々には未来を予見することはできない。我々ができるのは未来をつくっていくことである」と言っています。我々は滅亡を予見するのではなく、その滅亡を防ぐために努力しなければならないというのが、私の確信です。イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムの有名な言葉「最大多数の最大幸福」こそが、社会が目標とすべきものです。ところが現実は、グローバリゼーションが進展する中で、「最強者の最大幸福」が求められています。あらゆる分野で最強者しか残れない競争社会です。これが今の現実ではないかと思います。
グローバリゼーションと申しましたが、これにはもちろん光と影があります。例えば、投資や貿易が拡大すると経済成長が促進されるとか、生活水準を高める欧米の消費パターンが普及するといったプラス面も確かにあるわけです。しかし、影の部分があまりにも大き過ぎます。エネルギーも資源もどんどん消費される一方です。激烈な競争社会で、企業は競争力という大義名分の下にどんどんリストラを行います。かつては当然のように認識されていた企業の社会的責任というものは、放棄されています。そして、人間の本来の目的は幸福追求にあるはずですが、経済成長が目的となっています。経済成長は手段にすぎず、幸福追求が目的であったのに、手段と目的が混同されてしまったのが現状だといえるのです。
そういう中で、数知れない危険が増大してきています。原子力だけでなく、環境ホルモンをはじめとする合成化学物質はその数、八万とも九万とも言われてますが、たいへん管理が難しくなっているようです。環境破壊はどんどん進み、凶悪犯罪や家庭崩壊等の社会の荒廃も進んでいます。そして、人間が排除される現象が生じています。ロボットやオートメーション化は、人間の職を奪うという面があります。労働市場は流動性があるから大丈夫だと言いますが、現実にはそうならず、失業者が増えています。
例えば、駅で切符を切る仕事は、今やほとんど全て機械がやっており、そこには人間はいません。昔の国鉄関係の人から聞くところによれば、地方で勤務する職員にとっては、駅での切符切りというのは最後の栄光の道だったのだそうです。機械化、オートメーション化には、人間を排除する面があることを、改めて指摘したいと思います。
そして、グローバリゼーションの競争社会からは、いわゆる敗者が生まれます。これに対するものとしてよく言われるのが、セーフティネットで救えばいいということです。私はそういう人には、「そういうあなたこそ、いずれセーフティネットのお世話になってしまう可能性がある」と言い返します。今のままでは、失業者が増えてセーフティネットではカバーしきれなくなる時代が必ず来るということを、私は指摘しておきたいと思います。
世界の現状を生んだ三つの要素 一体、なぜこのような現状が生まれてしまったのか。この現状を生んだ要因を、私は三つ挙げたいと思います。
一番目の要因は、「倫理の欠如」です。それを表す三本柱と私か言っているものがあります。一つ目は、未来の世代に属する資源を乱用して今の繁栄を築いていることです。いい例が石油で、中東諸国で百年後に生まれる人たちは、さぞ先祖を恨むと思います。もし石油が枯渇していたら、なぜ先祖は我々の資源を使い尽くしてしまったのかと恨むことは確実です。二つ目は、原発から永久に有害な放射性廃棄物や化学物質を垂れ流していることです。三つ目は、巨大な財政赤字の負担を未来の世代にまわしていることです。この三本柱だけでも、いかに今の世代が未来の世代に対して罪を犯しているかということが指摘できると思います。
二番目の要因として、私は「真の指導者の欠如」を挙げたいと思います。「真の指導者」を、私は「グローバルーブレイン」と言っています。
先進工業国は、中国やインドに対して工業化を奨励しています。中国の十三億とインドの十億を合わせて二十三億人ですが、これは世界人口の三分の一強です。その人たちに、日本のような割合で車を普及させれば、環境破壊は決定的になるということに誰も異論を唱えないでしょう。しかし、その対策を考えているかといえば、どこの国にもそうした問題を考える部局は政府部内にはありません。真の指導者がいない好例です。私がいう「グローバルーブレイン」は、何も政治の世界だけではなく、あらゆる分野に必要です。私は先ほど「職業には良し悪しはなく、生き方にこそ良し悪しがある」と言いましたが、あらゆる分野において真のリーダーが必要であり、それを育成していくことが今、非常に求められているのです。
三番目の要因は、「GDP(国内総生産)経済学」の責任が大であるということです。
今の経済学では、貨幣化、計量化されるもの以外は全て無視します。そこでは、保全すべき資本となるはずの天然資源を、所得と考えているのです。ですから、経済発展すればするほど環境は破壊されるという構造的な関係が存在するわけです。そして、人間の幸せに関係する友情、愛情、文化、伝統、宗教、社会正義といったものは、いずれも計量化されません。経済学ではこういうものはすべて無視されるわけです。
経済学の父と言われるアダム・スミスは『国富論』の中で、「あなたの利益を追及しなさい。そうすれば『神の見えざる手』が上手く秩序を作ってくれる」と言っているのです。
倫理とは、相手の利益、立場を考えることです。ですから、そもそも出発点において、経済学は倫理に反することを奨励しているのです。
私はこれに対して、「知足経済学=足るを知る経済学」を新しい文明の土台に導入し・なければならないと考えます。これはもはや経済学だけではなく、哲学、社会学なども踏まえた総合科学としなければなりません。
今のノーベル賞は、統計や数式の入った複雑な理論の経済学をした人にしか来ませんが、1998年には、二人のノーベル賞経済学者が顧問を務めていたアメリカの金融会社(LTCM)が破産しました。今のグローバリゼーションにおける、経済至上主義の利潤追求の支えとなっているGDP経済学の責任は大きい、といわざるをえません。
文化の逆襲 こういった現状に対して、私は文化の逆襲が必要であると主張します。人間の幸福は、文化なしには考えられません。文化とは、芸術、絵画、音楽等だけではなく、伝統、風俗、習慣、食事、言葉、人間関係、こういったものが全て含まれます。そして、文化とは基本的な倫理価値を増進し得るものです。グローバリゼーションが人間排除をもたらす中で、人間性の復興をめざす文化の逆襲が早晩始まるであろう、と私は見ています。
また、これまでの日本社会を特徴づけた「政官財文化」が限界に来たと思っています。
これからの新しい文化を、私は「地球市民文化」と呼びたいと思います。これからは「地球市民文化」が「政官財文化」に取って代わり、また文化交流がますます重要になってきます。
異なる文化、文明間の競争、そして文化や文明にとって決定的な要因となる諸宗教の競争も大きな課題となっています。文明、文化、宗教の相互理解を増進することがたいへん重要にあり、その決め手となるのが文化交流です。そして、文化交流によって多様性を尊重する寛容の精神が芽生えてきます。これが、利己主義に代わるべき「連帯」に不可欠だと思います。私は新しい文明を「倫理と連帯に基づき、環境と未来の世代の利益を尊重する文明」と定義したいと思います。
新しい文明の必要性 それでは、新しい文明が必要とされる理由を五つ挙げたいと思います。
一つ目は、環境の破壊、家族関係の崩壊、社会の荒廃など、このままでは人類の危機はますます深刻化してしまうからです。
二つ目は、未来の世代を犠牲にして今の繁栄を築く、というような倫理の根本に反する今の文明を、天の摂理が認めるはずがないからです。
三つ目は、先進工業国が、今のような大量生産、大量消費、大量廃棄の経済活勤を続け新聞では報じられていないのです。
マレーシアのサバ、サラワクでは、ある種族が森林伐採のために絶滅に瀕しています。
かつてスイスの活動家が日本に来て、ある商社の前に裸になって反対の旗を掲げて抗議をしました。私かスイス大使時代に会ったこの活動家は、四、五年前にマレーシアで活動中に行方不明になってしまいました。また、ブラジルのアマゾンでも森林伐採によって少数民族が絶滅の危機に瀕しています。
四つ目は、非常に現実的な理由として、このままでは「文明の衝突」が起きてしまうからです。『文明の衝突』はハーバード大学のハンチントン教授が書いて、たいへん話題になった本ですが、その本の中で警告されているのは、西欧文明とイスラム文明、中国文明との衝突です。
ハンチントンは、日本文明を含めて、世界の九つの文明に名前を与えていますが、そこではアメリカ文明といういい方はありません。これは、私にとっては大きな驚きでした。
ハンチントンの思惑は、今から文明の衝突を想定して、西欧文明に属する欧米の結束を図るところにあるのではないかと私は見ています。ハンチントンの祖先はピルグリムファーザーズと呼ばれる初期のアメリカ移住者で、ヨーロッパとの繋がりが心情的にも非常に深い家系です。シュペングラーが二十世紀初頭に書いた『西洋の没落』という有名な本の中にも有色人種からの攻撃に対する砦としてプロシア(ドイツ)を復興させると色人種と白色人種の対立の図式が描かれています。
その目でハンチントンの主張を見ると、イスラム文明も中国文明も担い手は有色人種です。今の物質文明、石油文明が続くと、日本、中国を含むアジア諸国は確実に中東の石油に依存せざるを得なくなり、中東とアジアは運命共同体になります。まさに有色人種と白色人種の対決の図式が実現してしまうわけです。このような衝突を回避するためには、物質文明、石油文明からの決別が不可欠なのです。
五つ目は、世界的に有名な環境学者レスター・ブラウン氏も先はどのOBサミットにスペシヤルゲストとして出席して主張していたことです。
中国が年8%、インドが年7%の割合で今のまま経済成長を続けると、2031年には中国だけで主要な天然資源を消費してしまうことになります。例えば石油の例をとる、現在の世界で毎日の消費量が7900万バレルですが、2031年には中国だけでそれを上回る9900万バレルになってしまいます。石炭については、現在の世界で25億トンですが、中国のみで28億トンになります。それから、現在の世界で8億台の車が、中国だけで11億台になります。これに7%の成長をするインドが加わると、まさに資源の枯渇による資源紛争、資源戦争は不可避になると思います。
ブラウッ氏は、「今の経済発展モデルは今後の世界には通用しない」と断言しました。
もし今の文明を変えない場合には、資源戦争、資源紛争によって社会秩序は破壊されてしまいます。何とかしなければならないことは、中国、インドの経済発展だけを見ても自明であり、ブラウン氏も新しい文明を築くことが必要だという認識に立ち至ったのです。そして、平和問題を扱う五井平和財団は、11月3日にレスター・ブラウン氏に五井平和賞を授与しました。資源不足の問題は、平和に直結する問題になっているわけです。
このような五つの理由から、新しい文明の創設が必要だということが説明できると思います。そして現実に、「新しい文明を築く」というテーマのシンポジウムが、ゴルバチョフ元大統領まで参加して、4千人を集めて東京で開催されたということは、私の主張が必ずしも浮世離れしたものはないことを示していると思うのです。
新しい文明の方向性 それでは、新しい文明の中身はどうあるべきかという問題に移りたいと思います。私は三つの方向性が必要だと思います。一番目は、「物質中心」から「精神中心」に移行すること。二番目は、「利己主義」から「連帯」に移行すること。三番目は、「貪欲」から「小欲知足」に移行することです。
三月のサンタークララ大学でのOBサミットの専門家会議のとき、同大学で開催されたシンポジウムで私かこの主張を述べたところ、たいへん好評で、会合後に何人もの人が「賛同する」と言いにきてくれました。アメリカという国で、そういう反応があったことを確認できたのは、大きな成果だったと思います。そして日本でも小泉首相が2004年の1月24日の国会で、「足るを知ることが大事だ」という発言をしました。また、民主党の小沢一郎氏も、「物質万能主義の文明の見直しが必要だ」ということを新聞で述べています。さらに、ハーバード大学のガルブレイス名誉教授は、「成長至上主義に代わる幸福の新しいモデルを、日本は世界に示すべきであり、また示すことができる」と述べています。
新しい文明における教育 そこで、新しい文明におけるいくつかのテーマについて、私の考えを述べたいと思います。
教育については、どのように実施するか難しい問題ですが、感性を重視した教育改革が必要だと思います。その教育は、成人教育、世論啓発も含めたものが必要です。
二つ目にヽ科氷技術のあり方です。「合理主義一辺倒では限界がある」という認識が、
かなり広まっています。「〈自然を支配する〉というような人間の傲慢は捨てなければいけ
ない」という認識も、かなり広がっています。
新しい文明における科学技術 二つ目に、科学技術のあり方です。「合理主義一辺倒では限界がある」とういう認識が、かなり広まっています。「〈自然を支配する〉というような人間の傲慢さは捨てなければいけない」という認識も、かなり広がっています。
十六世紀のフランスの有名な思想家ラブレーは「良心のない科学は魂のなきがらにすぎない」という有名な言葉を残しています。例えば、クローンの問題でも、科学技術を使う良心が問われています。「効率が上がれば何でもいい」というものではなく、効率を上げる場合も、人的資源の活用や天然資源の節約といった視点が必要です。人間を不要とするような過度のオートメーション化、機械化も、その意志があれば避けることができるわけです。
科学技術との関連で、『原子力と日本病』の中で私か反対したのは、青森県六ケ所村に国際核融合実験炉(ITER)を誘致することです。本が出版された当時、まだノーベル物理学賞受賞前の小柴昌俊先生か、朝日新聞の「論壇」で、「核融合というのは危険で経費の無駄である」という論陣を張っておられたので、私は本の中で引用しました。アメリカのマクスウェル賞という物理学賞をとった長谷川晃先生も、「ライフワークとして核融合をやってきたが、これは上手くいくはずがない」という結論で、やはりITER計画に強く反対されていたので、これも私は引用しました。その後も日本政府はITER計画を実現しようとしていましたので、ノーベル賞をとられた後の小柴先生と長谷川先生に嘆願書を書いていただきました。
その一端をご紹介すると、わずか1ミリグラムで致死量となる猛毒のトリチウムを、ITERは2キログラム使います。2キログラムのトリチウムは、2百万人を殺す力があり、その放射線量はチェルノブイリ原発事故のそれと匹敵します。4万トン余りの放射性廃棄物が出て、数百年に亘って雨ざらしのまま放置され、汚染された雨水が地下水に浸透して、極めて大きな環境汚染を引き起こします。
「我々は良識と専門知識を持つ物理学者として、ITERの誘致には絶対に反対する」という嘆願書を作られたのです。私はこれを各方面に配りましたが、政策が変わる兆候はありませんでした。日本はEUと誘致を争ったわけですが、最終的にはフランスにITERが置かれることになりました。
私は先ほど、「日本病」は「世界病」でもあると言いました。スタンフォード大学でのOBサミットには、フランスのフランソワ・ポンセ元外務大臣、元副首相が来られていましたので、英訳した嘆願書を彼に渡しました。「ITERは危険なもので、このプロジェクトは中止されるべきだと確信します」と言って渡しましたが、今のところ中止されずに進められています。ITER本体はフランスに作られたのですが、研究所の一部が六ヶ所村につくられるという方向で、今なお計画が進んでいるわけです。しかし、ヨーロッパでも反対の市民グループが立ち上がっています。私は、これはまさに「世界病」を象徴するプロジェクト、利害のためには住民の生命の安全を二義的に捉えるという典型的な例だと思っています。
新しい文明における経済 次に、新しい文明での経済の地位の問題です。利潤追求優先の経済至上主義が改められなければならないということは歴然としていると思います。コストを高める有害物として人間を捉える競争社会から、人間の能力をお互いに高めあう協力社会に転換していくことが必要です。私なりに考えた「文明の普遍的価値」でも、やはり競争社会から協力社会への転換がこれからの大きな課題ではないかと思っています。
今、経済界の指導者たちは過大な影響力を与えられています。経済界の指導者は、与えられた影響力に見合った役割を果たす責任があるのではないでしょうか。フランスのヴィヴィアッヌーフォレステルという作家が面白い本を書いています。『奇妙な独裁制』という本で、「利潤を追求するグループは自ら政権の座にはつかないで、政権の座についている人に対して100%の影響力を行使するという奇妙な独裁制が蔓延(はびこ)っている」という内
容です。今のグローバリゼーションは、まさにそういった側面があるのではないかと思われます。
新しい文明におけるエネルギー問題 次に、新しい文明におけるエネルギーの問題です。これは、環境問題の中心的課題がエネルギーであり、文明の基盤となるのがエネルギーであるという意味で非常に重要です。
方向としては、自然エネルギーの利用と燃料電池という答えが既に出ています。燃料電池には、水素をつくるのに多大なエネルギーが必要になるわけですが、水素を自然エネルギーでつくることができれば、究極のエネルギーになります。ともかく、太陽によって与えられる再生可能なエネルギーの賜(たまもの)の限度内で生活するという心構えが必要です。
私かセネガル大使をしていた1989年から92年に、日本での反対を押し切ってセネガルに太陽エネルギーを導入しました。そして、当時のディウフ大統領にたいへん感謝され、離任して六年も経った時点でも長いお礼のお手紙をいただきました。
最近、先はどのITER反対の嘆願書を書いた長谷川晃先生から手紙をいただきました。
長谷川先生によると、世界の砂漠は地表の10%ですが、その10%の砂漠を太陽パネルで覆えば、今の消費量の四倍のエネルギーが確保されるそうです。砂漠にパネルを置く利点の一つは、それによる影が水の蒸発を防いで、食物の栽培もできることです。
太陽エネルギーは、水素やメタンなどの化学エネルギーに転換すると運搬が可能になります。水素をつくるにはたいへんなエネルギーがいるわけですから、結局は太陽エネルギーしかないのだと言われています。現状では、光を熱にする転換率が20%とされていますが、40%ぐらいまで技術が進んでいるようです。たいへん有望で、夢のある話ですので、ぜひ今後ともこのプロジェクトに関心を持っていきたいと思っています。
「日本病」克服のために―原子力問題の解決 新しい文明を築いていくためには、「日本病」「世界病」を克服することが一つの大きな関門だと思います。そのためには、何をおいても原子力の問題を解決する必要があります。
原子力の利用に倫理と責任が伴っていないのは、明白です。
まず、原発廃棄物の処理法を、人類はまだ発見していません。たとえガラスに入れて密封しても、1万年ぐらいすればとけてもれてしまいます。これを何万年、何十万年と管理していくことは、どだい不可能です。数十年前の戦争時の毒ガスですら、中身がもれて中国で多くの被害を出しているのです。「トイレなきマンション」と言われるように、日本の原発は廃棄物の置き場に困っています。あと3年から5年で中間貯蔵所ができない場合には廃炉に追いやられるところまできています。既に住民が危険性に気がついて反対するので、中間貯蔵所ができません。もし原子力発電を続ける場合は、法律をつくって強権的に行うしかなく、民主主義に制約を加えるという重大な問題になります。原子力の問題は、そこまで大きな問題を孕んでいるということをご理解いただきたいと思います。
それから、大事故に対する即応体制がありません。スウェーデンでは、16歳以上は事故が起きたら協力すべしということを立法化しています。日本は一切そういうことがなく、私か最も問題だと言っているのは、総理大臣が会長である中央防災会議です。この会議では東海大地震の被害予測を出していますが、その被害予測の中に、原発の「げ」の字も出てきません。ところが、東海大地震でマグニチュード8以上の地震が予測される地域のど真ん中に、浜岡原発が5基存在するわけです。この事実を聞いただけでも、おかしい、狂っているということが言えます。私は浜岡原発の停止を求める全国の署名運動の呼びかけ人となっております。昨年で55万人分の署名が集まりましたが、未だに政策は変わっていません。浜岡原発が止まるまで集め続けるつもりです。呼びかけ人(賛同者)には京セラの稲盛和夫さん、哲学者の梅原猛さん、それから音楽家の坂本龍一さんらがいます。こういった全く政治とは関係ない人もたくさん集めて、運動を広げていっています。
また原発では、必ず被爆労働者という被害者が出ます。30年間に延べ100万人、実質25万人前後の被爆労働者が出ています。原発から環境に放出される放射能が周辺住民に被害を与えているという問題もあります。私は全国知事会にその検証の必要を訴えていますが、返事がなく未検証のままです。アメリカでは乳がんの発生率と原発所在地が一致するという『内部の敵』という本が出されています。今後とも、被害率状況を検証すべしということを訴えていきたいと思います。
それから、チェルノブイリ原発事故の大惨事では、今なお数百万人が汚染地域で生活することを余儀なくされています。チェルノブイリの事故一つとってみても、人類は原子力と決別すべきで、それができないのは真の指導者が存在しないからです。さらに、今後、50年、100年の問に、このような破滅的な事故が繰り返されないと考えるのは全くの幻想です。しかも、原発は老朽化がどんどん進んでいるのです。本来40年の寿命を正当な根拠もなく60年にするということまでしており、私はこれだけは許せないと主張しています。
地球の非核化 次に、民事、軍事を問わず、地球の非核化かこれからの大きな課題です。そもそも核技術は民事と軍事に分けることができないものです。核が拡散したイスラエル、パキスタン、イラク、北朝鮮はいずれも、平和利用であるはずの原発から軍事利用の開発をしています。にもかかわらず、まだIAEA(国際原子力機関)は原発の促進を任務としています。そしてその結果、核物質を七十ヵ国以上に拡散してしまったのです。
今、アメリカが最優先しているのは核テロ対策ですが、テロリストはもう核物質を人手しているのではないかと言われています。プルトニウムが8キロあれば、比較的容易に原爆ができます。ならば、IAEAを改革して、既に拡散した核物質を回収する機関に改めなければいけません。核テロを防止するには、これしかありません。私は必ずそうなると信じておれます。
新聞には報道されませんでしたが、オーストラリアのシドニーから40キロのところに研究原子炉があって、最近核テロ未遂の容疑者18人が逮捕されました。これはイギリスのBBCとアメリカのABC放送で報道されました。ところが、日本の新聞にはその日も翌日も出ませんでした。私はニュース内容をまとめて全国紙やNHKの報道局長などマスコミ関係者に送ってやりました。原子炉に対する組織的な破壊計画があった可能性があるという重要なニュースです。BBCが報道するほどのニュースで、日本がどこのマスコミも大きくとり上げないのは非常におかしいと思います。
もう一つは、最近アイルランドが徹底した反原発国であるということを発見しました。
国内では原発を法律で禁止しており、隣国イギリスが今後新しい原発をつくることにもあらゆる手段を講じて反対していくという立場を取っています。イギリスが原発をさらに新しくつくるという方針を近々決めるという報道がありましたので、アイルランドはこれから何か手立てを考えてくると思います。
私は反原発国の論理を世界に広めるための結束が必要だと思っています。これも日本の新聞には報じられていませんが、今年の4月にアイルランドの対岸にあるイギリスの再処理工場で、ウランとプルトニウムを含む溶液が大量に漏出したという事件がありました。
先日、アイルランドの環境大臣がイギリスに行って、2010年までにその工場を閉鎖する確約を取り付けたということです。
日本の青森県六ヶ所村の再処理工場は、広島の原爆100万発分を集めようという途方もなく無謀な計画です。最悪の場合には、原発1,000基分の大事故になるということです。私は、その再処理工場で、3年前に300ヵ所の不正溶接が発見されたことを広く訴え、浜岡原発と六ヶ所村の再処理工場は世界を壊しかねないものであることを主張しています。スタンフォード大学でのOBサミットでも、その危険性を伝えて、もし原発震災などが起きれば、日本と世界の経済は壊滅し、影響は全世界に及ぶということで、国際的関心事にしてほしいと訴えました。
こういう反原発の動きの中で見ると、日本の異常さは際立っています。日本は世界の地震の10%が起きている地震大国です。島原では55メートルの津波、沖縄では80メートルの津波もあったという記録がある地震大国です。そういう国が世界第3の原発大国であるのは、無防備きわまりなく、非常におかしいわけです。さらに、浜岡原発と六ヶ所村の問題、原子力安全・保安院が経済産業省から分離していない問題など、おかしいことだらけです。アイルランドは隣国の原発にまで注文をつけていますが、日本の県知事は隣県の原発についても一切関心を持ちません。いかに住民の命について真剣に考えていないかがわかります。私はアイルランドの例を機会あるたびに各方面に知らせています。
権利よりも責任を こういう中で結論をいえば、「倫理の確立」こそが一番の急務だと思います。国際的にも、OBサミットが「人間の責任の普遍的宣言宣言」はありますが、権利ばかりを言って義務、責任をせおっていないのが現状です。そこで、「人間の責任の普遍的宣言」で、主要宗教の共通の倫理規範を集めた一つの文案を作成しています。これを国連でも採択させようという努力が続けられております。このような良識が国際的に存在することは、非常に希望を与えてくれるものです。
たいへん駆け足でしたが、以上で私のお話を終わらせていただきます。
『歴史の危機の入口に立つ日本』ごま書房 より