ドン・キホーテ
『ドン・キホーテ』木楽舎より そんなに昔のことじゃございません。
だだっ広いラーマンチャ平原の、その名はともかくとしましよう、
ある村の、ひとりの郷士の物語であります。
貧乏ながら一応はお侍。その屋敷には、はたちにならぬ姪と女中、それに畑仕事や狩りのお伴をする下男がひとりおりました。
ふだんは、高い羊肉よりは牛肉、金曜日には貧乏豆の煮込み、土曜日には……と、作者セルバンテスはこまごまと献立を記しておりますが省略。和風にいえば、豆腐納豆シャケ茶漬、たまのすき焼き、というところでしょうか。
狩りが大好きの早起きで、干物のようにやせてはおりますがいたって頑健な五十男。ということになりますと、スペインではどうしてもこの図のような風貌となります。ほかに考えようがないのです。
スペイン人は、日本人ってみんな同じ顔してるのね、と申します。が、こっちから見りや、スペイン人ってみんな同じ顔なのです。
従って、これぞドン・キホーテです。
閑を持てあます者には、空中を徘徊する悪霊が、大なり小なり取りっいてまいります。忙しく立ち働く者は、すでに金や名誉の亡者でありますから論外です。
さて、閑であって衣食に困らぬ貧乏貴族ドン・キホーテにはヽ騎士道物語の本、というものが取りつきました。夜も昼もなく、嘘だか本当だかわからぬような長い長い物語を、この本もそうですがを読みふけったのであります。
ほかに楽しみもない昔のスペインの田舎ですから、ま、やむをえますまい。文字が読める、というだけでも大したものです。二十一世紀の今日だって、新聞を読めない大人は、スペインにうじやうじやいます。それはつまり、文字に頼らない、直接の人間と人間のコミュニケーションが生きているということなのです。ばかにしてはいけません。尊敬しなさい。
とうとうドン・キホーテの頭の中にはスが入り、その空洞に“騎士道″が入り込みました。世に言う、頭がイカレた、のです。
「騎士の中の騎士とは誰か。パルメリン・デ・インガラテラか、アマディス・デ・ガウラか、それとも弟ドン・ガラオールか」てなことを、シグエンサ大学出の村の神父と論争した、と申します。
神父はすでに神父であります。
ドン・キホーテはついに、われこそ本物の騎士になろうと決心しました。
ドン・キホーテは、物置きからひいじいさんの鎧兜一式を引っ張り出してきて磨きました。
ということは、すでにそういう時代ではなかったのです。
私(堀越)のひいじいさんは何をしていたか私の知ったことではありませんが、上野の彰義隊で刀を振り回していたという噂もあります。その刀を磨いて今日歩き回ったら、やっぱり頭がおかしいでしょう。いますよね、そういう人、東京の永田町へ行くと。
騎士には馬と“思い姫”が必要だ。
ドン・キホーテはお手持ちのやせ馬をロシナンテと名づけ、それに来ることにしました。思い姫には村の小娘アルドンサ・ロレンソを決めました。当人はそんなこと知りません。これをドゥルシネア姫と呼ぶことにし、恋い焦がれることにしたのです。
さあ、いよいよ、ある七月の朝ぼらけ、誰にも告げず、ドン・キホーテは騎士の道を大平原に踏み出しました。ハレルヤ!
ところがすぐに恐ろしい事実に気づきます。
自分はまだ騎士に叙任されていない! つまり無免許だということです。
(名調子、千秋節炸裂といったところです。)
あとがき 世界中のノーベル賞作家が集団で押してもびくともしない、天下の名著がセルバンテスの『ドン・キホーテ』であります。その出版四百周年の今年、星々の導きにより運良くこの迷著が完成しました。
もともとは、原典の全新訳をされた荻内勝之氏の本の挿絵として、スペインで描かれたこれらの絵でありましたが、諸事情により新訳の方は別の形で、世に問われることとなりました。
そこでセリフのない紙芝居では子供たちにはわかりにくいと思い、
急遽絵筆を鉛筆に持ちかえて書き上げたのが本書の文章であります。
その間、台風がひとつ南から北へ抜けました。つまり正味四日間であります。寿司は手早く握られます。御批判をお待ちする次第です。
いうまでもなく、荻内教授のすばらしい新訳を下敷きにさせていただきましたこと、また大いなる勇気を与えてくださった、木楽舎の小黒一三さん、編集の小針かなえさん、装丁の奥村靫正さん、星光信さんに深く感謝をいたします。ありがとうございました。
2005年9月10日 埼玉県神泉村の山中にて
筆 者