映画やテレビドラマのテーマ曲などに多く使われているショパンの「別れの曲」をポリーニ、アシュケナージ、ホロヴィッツ、リヒテル、フランソワで聴き比べてみました。
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ショパン 練習曲 op.10-3「別れの曲」引用元:Wikipedia
練習曲作品10第3番ホ長調は、フレデリック・ショパンが作曲した独奏ピアノ曲。遅いカンタービレの練習で、右手が内声部を弾きながら、旋律の音量を維持しなければならない。 日本においては、「別れの曲」の名で広く知られる。西欧においては「Tristesse」(悲しみ)の愛称で知られるが、ときにフランス語圏で「L’intimité」(親密、内密)、英語圏で「Farewell」「L’Adieu」(別れ、別離)と呼ばれることもある。 歴史 日本では『別れの曲』の愛称で広く知られるが、これは、1934年のドイツ映画の邦題『別れの曲』(当時の欧州映画は数か国語版をネイティブの俳優で同時撮影する慣習があり、日本ではなぜかフランス語版が公開された)で同曲が主題となり物語が展開していったという経緯に因む(尚、映画での演奏はエミール・フォン・ザウアー)。この映画はかつてNHKで何度か取り上げられて放映されていたが、オリジナル版(ドイツ語版)だったため、劇場で見たものと違うと抗議が殺到した。なお、フランス語版はDVD化されていないがドイツ語版はDVD化されている。ショパンの作品では他に「夜想曲第2番」が映画『愛情物語』の主題曲”To Love Again”としてアレンジされ名高いが、こちらは曲の代名詞化するまでには至っていない。クラシック全体を見渡しても映画音楽利用が曲名として普及した例は唯一に近い。 技術 この練習曲は速度の点でショパンの他の練習曲の大部分と異なっている。ショパンの時代以前の練習曲で必要とされた技術的な妙技からの大きな変化であり、技巧よりもむしろ、旋律的なフレージングの表現力とレガートの雰囲気を引き出す事が重要である。甘い旋律ばかりが注目される曲であるが、中間部にショパンならではの激情的な部分があることを忘れてはならない。劇的要素も求められる。彼が生まれたポーランドへの愛が高い質で顕現されており、評論家にはピアノのための詩、ロマン派作品として高く評価されている。彼の弟子の一人、アドルフ・グートマン(英語版)とのレッスンでこの曲を教えていたとき、ショパンは「ああ、私の故国よ!」と泣き叫んだという[1]。ショパンはまた、「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」といった。
マウリツィオ・ポリーニ wikipediaより
マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - )は、イタリアのミラノ出身のピアニスト。 父親は建築家ジノ・ポリーニであり、また母親(彫刻家ファウスト・メロッティの妹)は声楽もこなすピアニストである。5歳からカルロ・ロナーティに、ロナーティの死後はカルロ・ヴィドゥッソにピアノを学ぶ。現役では最も高い評価を受けているピアニストのうちのひとりである。 1957年、15歳でジュネーブ国際コンクール第2位(マルタ・アルゲリッチは女性部門で1位)。1958年の同コンクールで1位なしの第2位。1959年のポッツォーリ・コンクールで優勝。 1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。 その後10年近く、表だった演奏活動から遠ざかる(本人はこれを否定していて、様々なコンサート、リサイタルに出演した)。
ウラディーミル・アシュケナージ wikipediaより
ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади́мир Дави́дович Ашкена́зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。マウリツィオ・ポリーニ、マルタ・アルゲリッチ等と並んで、20世紀後半を代表するピアニストの一人である。 1937年にソヴィエト連邦のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)の音楽家の家庭に生まれた。父親はソ連軽音楽界で活躍したダヴィッド・アシュケナージ。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。 1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し、2位に輝いた(優勝はアダム・ハラシェヴィチ)。
ウラディミール・ホロヴィッツ wikipediaより
『ヴラジーミル・ホロヴィッツ』より : ヴラディーミル・サモイロヴィッチ・ホロヴィッツ(Vladimir Samoilovich Gorovits(Horowitz), Владимир Самойлович Горовиц(Vladimir Samojlovič Gorovic/Horovyc), 1903年10月1日 - 1989年11月5日) は、ウクライナ生まれのアメリカ合衆国 アメリカのピアニスト ピアノ奏者である。指揮者 名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ トスカニーニの娘婿にあたる。ロシア語では”ゴロヴィッツ”と発音するが、ウクライナ語では”ホロヴィッツ”となる。 ホロヴィッツの演奏における音色、技巧、刺激的な熱情は他のピアニストを寄せ付けない。彼が行ったドメニコ・スカルラッティやアレクサンダー・スクリャービンのピアノ作品演奏は伝説的と言われる。その一方で、批判派によれば彼の演奏は一様にホロヴィッツ風の味付けに解釈されており、時には気取り過ぎ、また多くの場合は作曲者の意図(強弱、長短、速度など)を歪曲して弾いている。こういった事はホロヴィッツであるから許されるのであって、他のピアニストが行うと非難の的となるであろう。
スヴャトスラフ・リヒテル wikipediaより
スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(ロシア語: Святосла́в Теофи́лович Ри́хтер、ウクライナ語: Святослав Теофілович Ріхтер、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)は、ソビエト連邦のピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。 生涯 1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでドイツ人ピアニストの父と素封家の母親のもとに生まれた。幼いころに一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが、音楽家にしようという気はなかった。父親はその後別れて行動し、後にオデッサで処刑され、母親は別の男性と再婚した。 リヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用され、多くのオペラ曲の初見を経験した。
サンソン・フランソワ wikipediaより
サンソン・フランソワ(Samson François, 1924年5月18日、フランクフルト・アム・マイン - 1970年10月22日、パリ)は、第二次世界大戦後のフランスにおける代表的なピアニストの一人である。主に、ショパンやドビュッシー、ラヴェルの演奏を得意とした。 生涯 フランス人の両親の間にドイツで生まれる。5歳でピアノを始め、早くから天才といわれた。1934年、一家でニースに戻った時、アルフレッド・コルトーに見出されて1936年にエコールノルマル音楽院に入学、1938年にはパリ音楽院に入学後はマルグリット・ロン、イヴォンヌ・ルフェビュールに師事。ロンの最後の生徒の一人であったが、彼の態度はいたずらっ子のような様相を呈していて従順ではなかったため、ロンも手を焼いたという。その後1940年に音楽院を首席で卒業した。 1943年に第1回のロン=ティボー国際コンクールで優勝した。その後1947年にアメリカデビューを飾り、その後も各地で演奏活動を行う。 ドビュッシーのピアノ作品全集を完了する直前、心臓発作のため急逝した。