「変わるもの変わらぬもの」 和泉 晴夫 先生
戦後のベビーブーム時代に生まれた子供たちが、中学生として入学し始めた頃の昭和35年に、十中に赴任して8年間お世話になりました。 溢れるばかりの生徒(最大生徒数一,四二〇名、現在の約3倍)で、一学級56名のクラス(昭和37年度の-B・F・G・H)があったこともありました。このような状態でしたので、どうしても特別教室や保健室、図書室などにシワ寄せがあり、生徒諸君や担当者の苦心・苦労は大変なものでした。このような状況の出現は、学区域内の人口増加と区財政の困難(区役所は中野駅南側にあり、木造二階建で老朽庁舎)と、それに伴う計画のたちおくれにあったと思われます。 在職中は、毎年のように建築、建設の工事が行われました。木造校舎の増築、改修、室内の改装、体育館の新築、校舎の一部移築、そしてコンクリート三階建の特別教室棟の建設、プールの新設などが続々と行われました。新しい施設に対する夢と喜びもありました。しかし工事用地の確保で、狭い校地・校庭が一層せばめられて、育ち盛りの生徒諸君の中には、不自由で体力をもて余した人も多かったと思います。こういうことも一因かも知れませんが、多少の問題行動を起す生徒が居りましたが、大多数の生徒諸君は、学習・スポーツ・生徒会活動・クラブ活動・奉仕活動などに励み、自己のすぐれた資質を一層伸ばし、立派な成績を残し、十中の良い伝統をつくりあげていったと思います。 ある時、前の授業までいた生徒が、教室に戻っていないとの知らせが職員室にありました。手分けして校舎の裏をはじめ、居そうなところを全部探しました。家に電話しても応答がありませんレ大騒ぎになりました。若しやということで、便槽の中まで、のぞいて探しました。それから10分ほどしてM君はヒョッコリと帰ってまいりました。事情を聞くと、お腹をこわして下着を汚したので、家へ着替えにいったとのことでした。十中は当時まだ旧式便所で、大をするとオツリがかえってくるので閉口した人も多かったと思います。 水洗トイレになったのは、昭和41年3月からでした。 新宿の高層ビル群まで1粁の位置にある十中、その学区域の環境は当然日々に変化し、変貌し続けると思われます。8期生(昭和39年3月卒業)の70%はすでに他の区域で生活しています。しかし親子そろって十中で学んだ人も出ました。やがて三代・四代と、一族全部が十中の同窓生という方々も出現すると思います。これらの方々が中心となって、より立派な十中を育てていってほしいと思います。 歳月の移ろいと共に、十中に学ぶ生徒・教師の集団は変っていきます。変らずに残って伝えられるものは、校歌・校章・校旗のみでしょうか。 その時代に共に学んだ師弟同行での喜び、悲しみ、苦しみ、悔い、楽しい思い出。 また、級友、クラブでの先輩や後輩と共に流した汗と涙、喜びの思い出の数々。これらは、ひとり一人の心の中に深く刻みこまれていると思います。これを大切にして、自己の成長に役立ててほしいと思います。 そして、クテス会・同期会を中心として、それを統合していく同窓会が、心の故郷として発展し続ける十中を、支え続けていくことを願っております。
(開校四十周年記念誌より)
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