虔十公園林・考 ⑥虔十さんと周囲の人たち
人は誰でも『自分を認められたい』という欲求と『人の役に立ちたい』という欲求をもって生きています。これは人間の本能の一つです。幼い子も赤ちゃんも少年も青年も大人も高齢者も男も女も皆この本能を持って暮らしています。
ありのままに、感じたままに表現し暮らしている虔十さんに対して、彼の家族は皆よき理解者であり彼を認め受け入れつつともに暮らしています。
これに対して地域の人々は子どもたちも大人たちも虔十のありのままの表現や行動を馬鹿にしたり笑いけなしたりします。 何故そうしているかというと、理解しきれぬ表現や行動に対し戸惑い言葉を失い、対処しきれぬものだから手っ取り早いところ虔十を嘲り笑う対象にしたり、理解不能と判断する故に奇異な行動だとして面白がったりすることで自らの内面の戸惑いに決着をつけ処理しているからです。
みんなからあんまりにも馬鹿にされ、笑われるので虔十さんはたとえ『自然と笑えて仕方ない』ときにも「笑わないふりをする」という生きる知恵・経験智を取り込みます。 知恵が多かろうが少なかろうが、ありのままの自分が認められているのか認められていないのかは理屈抜きの世界で肌で感じ取れるものです。
親も周囲の大人たちも子どもに対して「判らせよう」「解らせよう」「伝えよう」「教えよう」とするあまり、これらのことがらばかりが先行して、その一方で子どものその時その場面での気持ちをまずわかろうとする努力を放棄して接していることって意外と多くあるように思います。 だだっこやわがままやわからんちんに対し、甘やかして受け入れその主張に振り回されるというのではなく、気持ちを分かったうえで、『是々非々』でなるべく丁寧に、相手にわかるように、感じ取れるように伝えることこそが基本です。
先ずわかろうと努め、即座に全面否定したり拒否したりをしない。 虔十さんの家族と周囲の多くの人々との間にこの態度の違いがあります。 そして虔十さんはそのことで救われながら生きてこられたのです。
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