虔十公園林・考 ⑦人としての虔十の輝き
虔十公園林・考 ⑦人としての虔十の輝き
作中から引用しますと『…雨の中の藪を見ては、喜んで眼をぱちぱちさせ、青空をどこまでもかけていく鷹を見つけては、跳ね上がって手を叩いて、みんなに知らせました。…』 虔十さんにとっては自然界の森羅万象は驚きと感動に満ち溢れたものなのです。 わー雨だ。冷たいな。気持ちいいなぁ。藪が雨に濡れてきれいだぞ。まぶしいくらいにきれいだなぁ。…わぁ、『鷹だぁ』青い空をどこまでもどこまでも飛んでいくぞ。鷹かっこいいなぁ。鷹ってすごいな。僕も鷹になりたいなぁ。その感動や憧れを虔十さんは跳ね上がって拍手で表現します。そしてさらに、「ほらみんな、鷹だよ。素敵でしょ」と知らせます。 風がどうと吹いて、ブナの葉っぱがちらちら光ると、それだけでももう嬉しくてうれしくてひとりでに笑えて仕方ありません。 けれども周囲の人たち、とりわけ子供たちが馬鹿にして笑うものですから笑われないような工夫をしつつもそれでも彼は自分の感動や喜びを伝え続けます。
虔十の家の後ろに大きな運動場くらいの野原がまだ全く手つかずの状態で残っていました。『おがあ、おらさ、杉苗700本買ってけろ』700本という数量をどうやって算出したのかは判りませんが、たぶん尺取虫みたいに一歩ずつ実測してうんと手間暇かかりながらも計算したのではないでしょうか。ある時風が吹いていて何処かの杉林を見たら「アッ、杉の樹がみんなして『おーい、元気かぁ?』って手を振ってくれている」って思ったのでは…。 『杉苗700本買って…』という虔十さんの提案に戸惑う母や兄。けれども一家の長たる父親がこれを了承してくれます。とてもよろこんだ虔十さんは唐鍬を持ち出し空地の芝をぽくりぽくり掘り起こして杉を植える穴を掘り始めます。 自分の望みが聞き入れてもらえた嬉しさにじっとしてなんかいられません。即行動です。 「杉の穴は植える直前に掘らないとダメなんだ」と兄にたしなめられ、気まり悪そうに鍬を置きます。翌日はよく晴れて、ひばりが高くさえずり、もう嬉しくてこらえきれず兄から作業の段取りを教わるなり杉苗を植える穴を掘り始めます。 実にまっすぐに、実に間隔正しく穴を700掘り続けます。一体何時間かかったでしょうね。 空地の底は堅い粘土質の土地でしたから、杉は5年までは緑色の芯がまっすぐに空の方へ伸びていきましたが、それ以上は伸びず、木の先端が丸くなったまま何年たっても3メートル弱の長さのままにとどまります。「杉林の杉」という観点からみれば商品価値のない貧弱な育ちっぷりの杉です。(結果オーライですがかえってこの木の高さと育ち加減が子どもたちの格好の遊び空間となるのでした。)
周囲の大人たちからは『やっぱりバカはバカだ』と笑われ、からかわれます。 『…あの杉ぁ枝打ぢさなぃのか?』との冗談を真に受けて、上の方の枝を三・四本位ずつ残して夢中で下枝を払う虔十さんです。すっかりがらんとなった杉林にぼんやりと立っている虔十さんに野良から帰った兄さんが『おう、枝集めべ、いい薪ものうんとできた。林も立派になったな。』と機嫌よく言います。虔十さんに対する虔十さんの家族のあったかさがにじみます。
がらんと隙間だらけの虔十さんの杉林は子供たちの格好の遊び場として変貌します。 本当の幸とはなんなのかを人々に感じ取らせる杉林はこうして後世に残りました。
気持ちが純粋で正直な虔十さんです。その虔十さんが隣の畑の持ち主の平二から『虔十、きさんどこの杉伐れ』と執拗に恫喝されます。この時虔十さんが一生のうちでたった一度きっり人に対する逆らいの言葉を一言「きらない」と明言します。この一言にどれほどの思いをこめて虔十さんは平二に言ったことでしょう。生涯に一度きりの逆らいの言葉…それはそれはすさまじい一言だったと思います。
さて、その秋に虔十さんはチブスで死にます。平二も同じ病気で死にます。虔十さんはおそらく二十歳前後の短い生涯だったことでしょう。
虔十公園林という作品を通じて、宮沢賢治さんは人の心の美しさ、家族愛、自然との共生という生き方の意味するところなどを伝えてくれていると思います。
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