虔十公園林・考 ⑨ 雨が降っては、透き通る冷たい雫を、短い草にぽたりぽたりと落とし
「虔十公園林」は、宮沢賢治の短編童話です。賢治が亡くなった翌年(1934年/昭和9年)に発表されました。
周囲の人たちの目からは虔十は、『おかしくもないのに笑ってばかりいて知恵が足りない』と、馬鹿にされています。 通常私たちにとって「おかしくもないのに…」と見えている世界も虔十さんの目から見たら世界は不思議と驚きにあふれた面白い楽しい世界そのもので、「ひとりでに笑えて仕方ない」程なのです。 乳幼児のあそんでいる姿の中には時として「不思議と驚きにあふれた世界」に入ったり出たりしながらあそんでいる様子が多々見られます。その様子に深い共感を持ちつつ向かい合っている大人は少ないです。かつては自分自身も乳幼児の時代に同様の入ったり出たりのあそび経験をしたにもかかわらずです。作者である宮沢賢治さんの感性はそこまで踏み込んだところから虔十さんの世界を読み解いています。虔十さんがいつも笑ってばかりいるのにはそれなりの理由があるのです。
1934年という時代背景を考えれば、少しでも健常でない子供は、コミュニティーの負担と捉えられ親戚中から恥とされ、隠蔽するといった処遇が常識で、そのような子は前世の罪の結果なのだといった宗教的な解釈や説明もされていた時代です。そういう常識に対し、そのような子でも必要な援助を与えれば(十力の作用によって)地域に貢献できる可能性があるのだということを宮沢賢治さんは説いています。
賢治が知的障害をどう見つめていたかが書き綴られ、時代に先がけてノーマライゼーションの可能性に言及した点で貴重な作品である。(ウィキペディア)
虔十がチブスにかかって死んでから20年間の間に街は急速に発展し、いつしか村は町になって昔の面影はどこにもなくなってしまいます。 ある日この村を出てアメリカの教授になって15年ぶりに里帰りした博士が、地元の小学校から依頼されアメリカについての講演をします。講演後、博士は小学校の校長たちと虔十の林を訪れ、この林だけが昔と変わらずにそのまま残っているのを発見し驚きそして多くの貴重な世界を悟ります。 虔十のことを博士も子供心に馬鹿にしていたことや、その一方この背の低い虔十の林のおかげで遊び場が提供され、連日あそびほうけて過ごした少年時代を経て、今の自分の個性があることを悟り、林の重要性に初めて気づきます。 博士は校長さんに『・・・ここはもう、いつまでもこどもたちの、うつくしい公園地です。どうでしょう。ここに虔十公園林と名をつけて、いつまでもこの通り保存するようにしては。』と提案し、その反響が地域社会を動かしその通りになります。
『…まったくまったく、この公園林の杉の黒い立派な緑、爽やかな匂い、夏の涼しい陰、月光色の芝生が、これから何千人の人たちに、本当の幸いが何だかを教えるか、数えられませんでした。 そして林は、虔十がいたときのとおり、雨が降っては、透き通る冷たい雫を、短い草にぽたりぽたりと落とし、お日様が輝いては、新しい綺麗な空気を、爽やかに吐き出すのでした。』
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