私の出発地点、昭和29年 谷田 慶子 先生
中野十中創立の、昭和29年という年は、私にとってもいろいろな意味での新しい出発の年にあたります。 幼少期を過ごした中野の地を結婚によって離れていましたが、程なく夫が出版社に職を得て帰京しだ年。大阪の夫の両親の家を出て、高円寺駅前通りの「いせ市果物店」の二階の6畳の部屋で、新しい生活を始めた年。教職員採谷試験に運よく合格の上、生れ故郷の中野で教職に就くことができた年。大阪のガリ版刷りの同人誌に発表していた私の詩を、「荒地」グループの鮎川信夫という詩人が読んで下さり、戦後詩の発展に最も大きな役割りを果たした、その「荒地」に参加した年。 何もかも昭和29年から始まったという思いが強いのは、中野十中が新設校だったことにも由来するかもしれません。グラウンド整備、生徒会規約、校章、…一つ一つ先生と生徒が手を携えて、中野十中が始動するための作業をなしとげていったあの日々は、振り返る人生の場面の中で特に鮮やかな一齣のように思われます。 校歌も、中野十中の教職員の作詞作曲が望ましいとの、初代羽山校長の意向に従い、私と中村茂隆先生が大役を果たすことになりました。当時、イギリスの現代詩を愛読し自分も新しい詩を志していた私の詩は、定型の五音や七音の枠に収まらず、作曲なさりにくかったに違いありませんが、中村先生は、全国のどこの校歌の曲にもないような、ユニークな美しい曲をつけて下さいました。 教職は家庭の事情で40歳半ばで退きましたが、本格的な活動を始めた昭和29年以来、「牟礼慶子」の筆名で詩は書き続けています。中学国語。高校国語の教秤書に以前に書いた詩が採用され、日本のどこかの教室で、私の詩を学んでくれている若い人たちに、昔の中野十中の生徒の皆さんの面影を重ねてみたりしています。 「荒地」に私を誘って下さった鮎川信夫が逝き、その戦後詩の先導者であった詩人の年譜と評伝を数年かけて書き上げました。昨年、樋ロー葉ゆかりの文学賞が制定され、拙著『鮎川信夫』|が第一回の受賞作に選にりしましたことを、私事ながら書き添えます。
(開校四十周年記念誌より)
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