此の頃考えていること 「ぎょうむ」と「しごと」の差異
仕事と自分の生き方との問題でもあるのですが、『保育や子育て』と『モノづくり』の世界を日々往復していると「ぎょうむ」と「しごと」の差異に見えてくるものがあります。生き方という点では「どのように生きてきたか、この先どのように生きていきたいのか」という反省と願望があります。
考えを整理する試みとして分厚い国語辞書の中から興味深く感じた事柄を拾い出しつつ自問自答を進めてみます。 ◆『業務とは・・・職業として継続、反復する仕事』 『業務上過失・・・業務を行う上で当然払うべき注意を怠ったために起こった過失』とあります。 私は元来そそっかしくて結構『見切り発車』で人生してきましたから今後もケアレスミスには気を付けないとなりません。 ◆『仕事・・・しなければならないこと。職業。働くこと。専門的、職業的な方面での価値のある作業やその成果。』 一方物理の世界ではこう説明されています。『力が物体を移動させるとき、力は物体に仕事をしたという。仕事量は、力の大きさ×力の向きの移動距離で表す。仕事量の単位はジュール。』 人間である子どもという存在はモノではないのでこの解説が即当てはまらない面も多々あります。
さて、仕事・仕事量のことなどに思いを巡らしていましたら、思い当たった寓話がありました。ここから話は飛躍しますが、イソップ物語の中にある「北風とおひさま」というお話。この寓話から読み取れるものがあります。北風とおひさまがどのような切り口から勝負をしたのかで話の展開も結果もいろいろ様変わりしてきます。「旅人の帽子を脱がそう」という勝負や「旅人のマントを脱がそう」という勝負。もしも反対の視点から「旅人にマントを着せよう」という勝負を挑んだらどうなっていたでしょうね。
閑話休題 親子という関係や保護者という立場からの捉えや関わりはニュアンスが違ってきますけれども、 『保育や子育て』と『モノづくり』の世界を日々往復している今の自分の暮らしを通じて感じる「ぎょうむ」と「しごと」の差異に重々気を付けなくてはと気づき出していることがあります。それは 『仕事をしているつもりや仕事をしている振りが成り立つ世界と成り立たない世界があること。』 そして、最終的にわが身に帰ってくるのは「どのように生きてきたか、この先どのように生きていきたいのか」という反省と願望の問題です。まだまだ途上ですが「この頃の気づき」の断片として途中経過をここに書き留めておき、日を改めて再度綴ります。
蛇足ながら国語辞書を引いている際に目を引いた派生的な項目も紹介しておきます。 『仕事師・・・難しい仕事を成功させる有能な人。』やり手。保育の仕事師ってあるだろうか? 『仕事の原理・・・物理では、てこ、滑車、斜面などを利用すると移動に必要な力は少なくなるが、移動距離が増して仕事量は同じであるという原理。』これなんかは、経験智からうわべの薄っぺらなテクニックと奥の深いテクニックが見え隠れします。安易な道に流れないように自戒です。
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