作曲者 中村茂隆 先生からのメッセージ 引用元:校歌500人大合唱祭
1955年の秋、当時、東京蓼術大学音楽学部作曲科の四年生たった私に、大学の学生係から呼び出しがありました。 「中野区立第十中学校というところから、今年度の作曲科の卒業生を教員として採用したいと言ってきているが、行く気はないか」とのこと。その時期は卒業作品の作曲に専念していて、他のことは何も考えられなかったのですが、卒業したら働かなくてはならないのだということを思い知らされ、中学校の先生は収入も安定しているし、やりがいのある仕事だと思い、作曲を中断して、中野十中へ校長先生の面接を受けに行きました。「区の教員採用試験に合格したら、来てもらいましよう。折角の機会だから、学校内の雰囲気を見て行ってください」と校長先生に言われて、授業中の人気のない廊下をゆっくり歩いてゆきました。 後に校歌の作詞をなさることになる国語の谷田慶子先生は、その時、空き時間だったので、図書室で本の整理をしておられたそうで、ふと廊下を見ると、若いへんな男が背伸びして教室をのぞき込んだりしながら歩いている、これは痴漢かもしれないと、私のあとを緊張して追ってこられたそうです。 その後、教員採用試験にも合格し、1956年4月から、私は十中の教壇に立つことになりました。この一年の楽しく懐かしい思い出を、私は「キンチヤン」というエッセイにまとめました。「キンチヤン」を含む「あの戦争から震災まで」のいうエッセイ集は十中の図書室にも寄贈しましたので、読んでください。 私が十中に赴任したのは、十中創立3年目、その年度の終わりには、第一回の卒業生を送り出すことになっていました。 卒業式にはどうしても校歌がほしいところです。その当時は校歌というものは有名な詩人と作曲家につくってもらうのが普通でした。しかし、羽山正二校長先生は、校歌はその学校の教員の手で作られるべきものと考えておられたので、詩は牟礼慶子というペンネームで既に社会的に活躍しておられた前述の谷田慶子先生、そして作曲はそのために十中に採用されたような私が受け持つことになりました。 ご承知のように、十中の校歌の歌詞は破格の長さで、そこには言葉がぎっしり詰め込まれています。この詩に、中学生が親しんで歌えるようなメロディーをつけてゆくのが、私の仕事なのです。その為にはメロディーだけでなく、ピアノの伴奏も含めてリズムその他の工央をこらし、曲全体をダイナミックな盛り上がりのあるものにしようと心がけました。 また、変声期の男子にも歌えるような音域内にメロディーをまとめることも重要な課題でした。私はできた校歌を音楽の時間に生徒諸君に歌ってもらい、歌いにくいところや、間違いやすいところをチェックしながら完成させてゆきました。 当時の十中には体育館も講堂もなかったので、宝仙学園の講堂を借りた文化活動発表会の一環として、校歌のお披露目が行われましたし、卒業式は3教室の壁をはずして作った空間で、ベビーオルガンを運んできて校歌その他を歌いました。私は校歌の伴奏を弾きながら、なぜか涙がボロボロ流れ落ちるのをとめることができませんでした。 1957年4月、私の郷里の神戸大学教育学部から音楽科のポストが空いたので来ないかというお誘いがあり、私としては十中に居続けるだけの魅力は十分にありましたが、長い将来を考えると両親の元で、郷里に貢献すべきかと思い、一年余の十中生活を切り上げて神戸へ帰ってきました。親しかった同僚の先生たち(谷田先生をはじめ多くは亡くなられました)、 一回と二回の卒業生の一部とは年賀状やメールのやり取りが続いています。 最後に60有余年、十中の校歌を歌い続けてきてくださった皆さんに、作者として心からお礼申し上げます。 これからも同窓会その他、集まりのたびに、校歌を歌ってお互いにアイデンティティーを確かめ合って下さい。
中野区立第十中学校は不滅です。
中村茂隆(85歳) |
十中の校歌 中林 俊彦 先生第8期卒業生 出席者A組
大川 真 鴨下 伸三 廣瀬 邦夫 津吉 彰郎 渡里 英二 加藤 美佐子 小林 恭子 竹内 久美子 三好 信子
B組
野田 保雄
C組
村松 元 大崎 加代子 佐藤 広子
E組
藤井 はるみ
G組
大久保 清 戸塚 修身 山田 雄二 吉田 安輝 安元 曜子 松下 きみ江 仲野 敬子 中村 多佳子 八谷 洋子 田代 峰子 能登 幸子
H組
槙田 昭夫 上野美 恵子 森田 由美子 深堀 洋子 青木 てる子
I組
関 雅行 長堀 くに子 金田 裕子
J組
神之門 栄一 熊谷 一秀 小倉 和子 草皆 洋子