ここ数年前からよく耳にする嫌な言葉に「自己責任」というのがあります。
シリアで拘束されていたジャーナリスト安田純平氏、イスラム国に拘束されたうえ殺害された湯川遥菜氏・後藤健二氏から、あげくは非正規雇用のワーキングプアや生活保護受給者、シングルマザーなどの社会的弱者に対してまで「自己責任」が使われるようになりました。
まるで責任が当人だけにあるかのような批判に釈然としませんでした。それにずばり回答を与えてくれたのが、北海道大学名誉教授の吉崎祥司氏が書かれた『「自己責任論」をのりこえる 連帯と「社会的責任」の哲学』(下記引用)でした。
自己責任論 引用元:吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる 連帯と「社会的責任」の哲学』(学習の友社)
自己責任論は想像力をもたない愚かしい者の放言──そう言っても間違いはないが、指摘しておきたいのは、自己責任論の根底には、民衆が無意識のうちにすり込まれている巧妙な政治的意図がある、ということだ。
〈自己責任論は、「社会的責任」と「個人的責任」とを意図的に混同し、支配層にとっての不都合なことすべてを個人の「自己責任」に解消することで、社会的・公共的責任を放棄し、あるいは隠蔽しようとするもの〉
自己責任論は以下のような流れでつくられていく。
1.競争を当然のこととし 2.競争での敗北を自己責任として受容させ(自らの貧困や不遇を納得させ) 3.社会的な問題の責任をすべて個人に押しつけ(苦境に立たされた”お前が悪い”) 4.しかもそうした押しつけには理由がある(不当なものではない)と人びとに思い込ませることによって 5.抗議の意思と行動を封殺する(”だまらせる”) |
国が解決するべき問題を個人の責任「自己責任」にすり替え、本来は国の義務であるはずなのに、そこから逃れ、個人を孤立させようとするのが政権の手口だったのです。