5月1日、水俣病が公式確認されて65年がたち、その慰霊祭はコロナ禍で中止になった。
患者・遺族代表の上野真美子さん(故川本輝夫氏の娘)の言葉。深く心打つ言葉でした。
患者・遺族代表 「祈りの言葉」 引用元:上野 真実子 メッセージ
私の記憶に残るのは、祖父の葬式で墓に行く父・川本輝夫の姿です。祖父は私が3歳の時に、勤めていた精神病院の保護室で、いわゆる劇症型水俣病の狂騒状態で未認定のまま亡くなりました。父はそんな祖父を一人で看取りました。私の手を引いて、父は大声で泣いていました。「じいちゃんの亡くならしたっぞー」と。死の意味も分からない私に、父は泣きながら語り続けました。抜けるような青空と、父の悲しみとがあまりにも対照的でした。 父の行動は、この慟哭から始まりました。 座り込み闘争宣言で「チッソ幹部は全国からの指弾の目を避けるための画策を練り、私たち患者家族が『チッソ王国水俣』で手負い猪になることをしきりに言う。私たちは同じ『手負い猪』になるのなら、最も悲惨・苛烈・崩壊・差別の原点『水俣』から日本を血だるまで、駆けめぐりたい。」と宣言しました。水俣病事件に巻き込まれ、家族を殺され自分自身も傷つきながら、水俣病事件によって破壊された人としての尊厳を取り戻そうとしたのが、父の水俣病事件の闘争でした。 自らも患者でありながら一軒一軒訪ねてまわり、認定申請を勧めた父。その人たちの辛さや暮らしの大変さを自分に重ねて、身にしみて感じていた父は、その方たちの代弁者として一生を走り続けました。胎児性の患者さんに寄せる優しい父のまなざしは私のあこがれです。 1年9か月続いた自主交渉の場では、当時の島田社長に 「日本全国の同じ父と母が、そんなに違いがあってよかですか。同じ幸せであるべき父と母が、そんなに変わっていいですか。・・」と話しかけました。「人間の価値、命の重さは同じだ。人間は幸せになるために生まれてきた。」という父の哲学に裏付けされた言葉でした。 父はこれまでに4回逮捕され、家宅捜索を2回受けました。すべて無罪でしたが、映像で映る家宅捜索のニュース、数々のいやがらせハガキ、電話。幼い私は傷つきました。私はまだ幼くて、差別に弱かった。差別をはねのけるすべを知りませんでした。辛くて悲しかった。でも、母は揺るがなかった。私たちきょうだいに、父は「何も悪いことはしていない。患者さんのために闘っている。」と教え続けました。私たち家族は、父を支えるため、必死で生きてきました。 「熱意とはことあるごとに、意志を表明することにほかならない。」これは父が私たちに遺した遺言です。意志を表明し続けた人生だったと思います。「口では言わないけど、おまえの親父さんがすごいことをしてきたとみんな思っている。」「あんななかで、たった一人で闘ってきたお父さんは偉かったと思う。」と言ってくれる友だちがいます。父の言葉や生き方はたくさんの人を勇気づけ、未来を生きる道しるべになるのではないかと思います。そんな父に、私はゆるぎない尊敬を感じています。 今、人間の弱さ、差別性があぶり出されています。また、水俣病事件でも起きていた匿名の中傷・差別が、形を変えてたくさんの人を傷つけています。自分自身も注意深く見極めていかなければ、差別をする立場に立っていることにさえ気づかないかもしれません。こんな時代だからこそ、水俣病事件の教訓を生かし事実を受け止め間違いは正し、乗り越えるために知恵を絞ってきた、おとなたちは話し合いを重ね努力してきたと、胸を張って未来をになう子どもたちに言えるようになりたいと思います。 水俣病事件で闘ってきた父、父に力を与えてくださったみなさま、無念の中で亡くなられたみなさまのご冥福をお祈り申し上げます。私たちは未熟で、まだまだ間違いを繰り返すかもしれません。ご冥福をお祈りするとともに、私たちを正しき道へお導きくださいますようお願いいたします。 コロナ禍にあり慰霊式を中止せざるを得なかったこと、大変な準備をされた中でのご判断でさまざまな葛藤があったことと思います。ご尽力くださいましたみなさまに、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。 令和3年5月1日 患者・遺族代表 上野 真実子 |
川本輝夫出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川本 輝夫(かわもと てるお、1931年8月1日 - 1999年2月18日)は、日本の政治家。水俣病の患者の運動体『チッソ水俣病患者連盟』の委員長。水俣市市議会議員。
生涯
熊本県水俣市出身である。父、川本嘉藤太は、水俣市に工場がある新日本窒素肥料株式会社(1965年に「チッソ」と改名)に勤めていた。
川本輝夫は、家庭の事情により熊本県立水俣高等学校を2年で中退する。漁業作業員・建設作業員・チッソ臨時工員などの職業を経験し病院勤務する。寝たきりの父を介護しつつ准看護士資格を取得する。
本人は1955年より水俣病を発症していた。1961年より父が発病して寝たきりとなり、1965年4月に急性劇症でもだえ死ぬのを看取る。1968年に水俣病の認定申請を行って2回棄却されるが、その後、認定申請棄却処分に対する行政不服審査請求を行い、1971年に認定を勝ち得る。
1968年5月に、チッソ水俣工場での問題の工場廃液排出が中止となる。1968年9月26日には、熊本における水俣病はチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると厚生省が発表する。その時点では、認定患者は死亡した人も含め111人だった。川本輝夫は、水俣病での未認定患者が死亡患者や重症患者も含めて多くいることを踏まえ、潜在患者の認定申請の説得につとめ、未認定患者救済運動に積極的に参加し、リーダー的存在となる。裁判による解決を求めるグループ、いわゆる「訴訟派」とは別に、チッソ側に直接抗議しチッソの幹部と交渉する自主交渉を展開する。1年6ヶ月のチッソ本社前での座り込みやチッソ本社重役との自主交渉については、警備員らによる暴行があり反撃も十分できないまま、逆に1972年12月27日に傷害罪で起訴され、懲役1年6ヶ月の求刑を受け、一審判決は罰金5万円・執行猶予1年の有罪判決であったが、高等裁判所では被疑事実が認定されつつも
「本件は訴追を猶予することによつて社会的に弊害の認むべきものがなく、むしろ訴追することによつて国家が加害会社に加担するという誤りをおかすものでその弊害が大きいと考えられ、訴追裁量の濫用に当たる事案である」との理由で公訴棄却となり、最高裁で確定している。
1973年7月9日に、患者側とチッソの補償協定を勝ち得る。『チッソ水俣病患者連盟』の委員長を22年間つとめ、水俣病の被害の非常に深刻な実態、チッソへの責任追及、そして未認定患者が多くいることを、日本や世界の市民に知らせることとなる。なお、2004年時点でも認定患者の数は2,263人であり、患者側が満足できる水準でない[要出典]。1995年の政府による調停受け入れを条件に一時金を受け取ることができる未認定患者も、12,700人とされている。
1976年10月3日、三里塚芝山連合空港反対同盟が開催した集会に参加し、デモ隊と機動隊がぶつかる混乱のさなかに逮捕されている(処分保留で釈放)。
チッソの企業城下町としての水俣市で市議会議員選挙に無所属で当選、三期務めた。出席最後の市議会では、「水俣湾を世界遺産に」と提案する。
1999年2月8日、肝臓がんで死亡する。市民運動を担う人々のほか、細川護熙や石原慎太郎からも弔辞が届けられた。