相川くんの「1年遅れの第18回ショパンコンクール1次予選終了」
https://yarouyo.jp/readnote.php?no=2961&pls=0&prc=0&rcn=0で「第18回ショパン国際コンクール2021」三次予選のYouTubeで通過者 反田恭平の演奏に出会いました。演奏曲目はマズルカ3曲、ソナタ3番、変ホ長調のラルゴそして英雄ポロネーズ、なかでも英雄ポロネーズのスケールの大きい演奏に聞き入りました。
そこで今回「音楽 聴き比べ」は英雄ポロネーズを取り上げ、反田恭平くんと巨匠の演奏を聴き比べることにしました。
ファイナルも、ピアノ協奏曲1番をオーケストラと息ピッタリで、もしかしたらと期待を持たせる素晴らしい演奏でした。
結果は今夜発表とのこと楽しみです。
聴き比べる巨匠はホロヴィッツ(85年録音)、ポリーニ、アルゲリッチ、ルビンシュタイン、フランソワです。反田恭平くんがいかに期待の持てる若人か分かると思います。
ウラディミール・ホロヴィッツ wikipediaより
『ヴラジーミル・ホロヴィッツ』より : ヴラディーミル・サモイロヴィッチ・ホロヴィッツ(Vladimir Samoilovich Gorovits(Horowitz), Владимир Самойлович Горовиц(Vladimir Samojlovič Gorovic/Horovyc), 1903年10月1日 - 1989年11月5日) は、ウクライナ生まれのアメリカ合衆国 アメリカのピアニスト ピアノ奏者である。指揮者 名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ トスカニーニの娘婿にあたる。ロシア語では”ゴロヴィッツ”と発音するが、ウクライナ語では”ホロヴィッツ”となる。 ホロヴィッツの演奏における音色、技巧、刺激的な熱情は他のピアニストを寄せ付けない。彼が行ったドメニコ・スカルラッティやアレクサンダー・スクリャービンのピアノ作品演奏は伝説的と言われる。その一方で、批判派によれば彼の演奏は一様にホロヴィッツ風の味付けに解釈されており、時には気取り過ぎ、また多くの場合は作曲者の意図(強弱、長短、速度など)を歪曲して弾いている。こういった事はホロヴィッツであるから許されるのであって、他のピアニストが行うと非難の的となるであろう。
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マウリツィオ・ポリーニ wikipediaより
マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - )は、イタリアのミラノ出身のピアニスト。 父親は建築家ジノ・ポリーニであり、また母親(彫刻家ファウスト・メロッティの妹)は声楽もこなすピアニストである。5歳からカルロ・ロナーティに、ロナーティの死後はカルロ・ヴィドゥッソにピアノを学ぶ。現役では最も高い評価を受けているピアニストのうちのひとりである。 1957年、15歳でジュネーブ国際コンクール第2位(マルタ・アルゲリッチは女性部門で1位)。1958年の同コンクールで1位なしの第2位。1959年のポッツォーリ・コンクールで優勝。 1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。 その後10年近く、表だった演奏活動から遠ざかる(本人はこれを否定していて、様々なコンサート、リサイタルに出演した)。 |
マルタ・アルゲリッチ wikipediaより
マリア・マルタ・アルゲリッチ(Maria Martha Argerich, 1941年6月5日 - )はアルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。 ブエノスアイレスの中産階級に生まれた。父フワン・マヌエル・アルゲリッチは経済学教授や会計士を務めて、 その祖先は18世紀にスペインのカタロニア地方からアルゼンチンへ移住していて、アルゲリッチはカタロニア出の姓である。母フワニータ(旧姓ヘラー)はベラルーシからのユダヤ系移民の二世だが、ユダヤ教からプロテスタントに改宗していた。 保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された時やすやすと弾きこなしたことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。 1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。 |
アルトゥール・ルービンシュタイン wikipediaより
アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887年1月28日 - 1982年12月20日)は、ポーランド出身のピアニスト。様々な作曲家の作品の演奏で国際的な名声を博し、特にショパンの演奏では同時代の最も優れたピアニストであるとみなされている.。また、20世紀の代表的なピアニストの1人である 。ルービンシュタインの演奏家としてのキャリアは80年にも及んだ。 前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍した。ショパン以外では、ブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。 出生名Artur Rubinstein(Arthurではない)としてウッチのユダヤ人の家庭に生まれる。8人きょうだいの末子で、父は富裕な工場主であった。2歳の時、姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を魅惑的に再現してみせ、絶対音感とともにピアニストとしても並ならぬ才能の持ち主であることを証明した。ルービンシュタインも4歳の頃までには、自ら神童であると自覚していた。ハンガリーの著名なヴァイオリニストであったヨーゼフ・ヨアヒムは、4歳のルービンシュタインの演奏を聴いて強い印象を受け、家族に次のように話したという。 |
サンソン・フランソワ wikipediaより
サンソン・フランソワ(Samson François, 1924年5月18日、フランクフルト・アム・マイン - 1970年10月22日、パリ)は、第二次世界大戦後のフランスにおける代表的なピアニストの一人である。主に、ショパンやドビュッシー、ラヴェルの演奏を得意とした。 生涯 フランス人の両親の間にドイツで生まれる。5歳でピアノを始め、早くから天才といわれた。1934年、一家でニースに戻った時、アルフレッド・コルトーに見出されて1936年にエコールノルマル音楽院に入学、1938年にはパリ音楽院に入学後はマルグリット・ロン、イヴォンヌ・ルフェビュールに師事。ロンの最後の生徒の一人であったが、彼の態度はいたずらっ子のような様相を呈していて従順ではなかったため、ロンも手を焼いたという。その後1940年に音楽院を首席で卒業した。 1943年に第1回のロン=ティボー国際コンクールで優勝した。その後1947年にアメリカデビューを飾り、その後も各地で演奏活動を行う。 ドビュッシーのピアノ作品全集を完了する直前、心臓発作のため急逝した。 |