私は昭和39年4月に鷺宮高校に入学し、昭和42年の3月に卒業しました。入学の年昭和39年はいうまでもなく東京オリンピックの年であり、先日公開され好評を博した『三丁目の夕日』の第3話の頃に、鷺宮高校で学園生活を送ったことになります。まさに日本の社会が右府上がりで、「昨日より今日が」、「今日より明日が」良くなるということを誰もが信じて疑わなかったよき時代です。
当時は学区の制度がありましたから、鷺宮高校の生徒は中野、杉並、練馬の東京の山の手地域に住むサラリーマンの子弟が多く、生徒の生活環境、学習環境がある程度、均質であったことにも因るのでしょう。学校全体に落ち着いた雰囲気があったことが思い出されます。
私の自宅は杉並区の高円寺でした。最初はバスで通学しましたが、身体を鍛えようと、途中から自転車通学に切り替えました。学校の周辺はまだ武蔵野の面影の残る風景で、冬の日の通学は自転車のハンドルを握る手が、寒さで痛くなったのを記憶しています。
高校時代の私は「硬派」で、剣道部に入り、真面目に練習をしました。剣道は鹿児島出身の父の影響もあって子供の頃から町道場に通って練習をしていましたが、中学では「剣道は軍国主義の復活につながる」ということからか、クラブ活動が禁止されていたこともあり、その分を取り戻そうという気持ちがあったのかも知れません。2年のときに2段の段位を取りました。
学業の成績は、中クラスだったと思います。その頃の鷺宮高校は学業は女性の方が優秀で、私のクラスにも優秀な女性が何人かいて、とても彼女たちにはかなわないという一種の諦めの気持ちがありました。
また勉強ができるだけでなく、美人が多く剣道部の隣で練習していた卓球部の女生徒たちを気にしていたのも思い出の一つです。私は、入学してからの2年間はほとんど学校の勉強をした記憶はありませんが、教科書以外の本はよく読んだと思います。特に私は、子供の頃から『三国志よや『水滸伝』などの中国の歴史小説を読むのが好きでしたので、高校に入ってからは『唐詩』や『論語』などの中国の古典をよく読みました。学校の勉強は3学年になって、クラブ活動を卒業してからの1年回に、真面目に取り組みましたが、それでは厳しい受験戦争に勝ち抜くことができるはずもありません。人並みに一浪の憂き目にあうことになりました。
私も還暦を過ぎ自分の人生を振り返って、「戻れるものなら、いつの時代に戻りたいか?」と自問することかあります。「団塊の世代」の私たちは受験のプレッシャーがありましたから、「受験が終わった犬学一年生の頃に戻りたい」との気持ちも多少はありますが、思い出をたどると、やはり昭和の古き良き時代を過ごした「鷺宮高校生に戻りたい」と思っています。
〈元経済産業大臣 衆議院議員〉
100周年記念誌「百年萬歩」より