校歌について 昭和4年(1929年)4月東京府立高等家政女学校と改名し農業学校から独立した本校の清永福市校長は、当時歌人として令名の高かった高野辰之博士に作詞を、作曲家として高名な信時(のぶとき)潔先生に作曲を依頼されてでき上ったのが、あの有名な初代の「紫草」の校歌であった。
そもそも中野の地は昔、八幡太郎義家が狩をしたとの伝説があり、武蔵野の面影を十二分に残し、東に筑波嶺を、西に富士の高嶺を仰ぐ雄大な原野でありながら「紫草の一本ゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」と古今集に詠まれる程の繊細、優雅な紫草の群生するすばらしい土地柄であったから、清水校長は歌詞の第一節にこれを要請されたと伺っている。
府立高等家政女学校校歌 第一節は学校の環境が教育的に見て最高であり、昔の歌人も心をとどめた地でしかも都心の文化を吸収するに便利なすばらしい所であることを述べている。
第二節は学校で学ぶ生徒の精神修養の心得を述べ、誠実一筋に生きること、また「み空を道の鏡」と云うのは
明治天皇の御製(ぐおせい)
あさみどり澄み渡りたる大空の
広きを己が心ともがな
をとり入れて、大らかな気持ちを育てようと述べている。
第三節は学校卒業後の決意を示したもので、各自が社会人として世に出た以上は、他人に頼らず不撓不屈の精神でどんな困難にも堪え、それによって人生を明るく生きようという自覚を持つことを述べている。
戦後の学制改革に伴ない「鷺宮高等女学校」「鷺宮新制高等学校」から現在の都立鷺宮高等学校と改名した為、また昭和24年(1949年)4月から男女共学制となったので、新校歌制定の必要から詩入勝承夫先生に作詞を、また作曲家平井康二郎先生に作曲を依嘱し、昭和26年(1951年)11月3日文化の日に発表されたのが現在の校歌である。
都立鷺宮高等学校校歌 その頃、勝・平井の両先生が来校されて、現在の校庭の一隅に立たれた処、恰度(きょうど)西方の夕焼空に富士山がくっきりと浮び上り、そのまわりに大きな雲が一つ、ゆったりと流れてゆくのをご覧になり「まだ此処には武蔵野が残っていますねえ」と感嘆して佇(たたず)まれていたお姿がいまでも目に焼きつき、校歌の二番を歌う度に『武蔵野の雲みな若く』の一節にくるとお二方の先生を思い出す。その勝先生もつい先日不帰の客となられ、あの夕焼空の美しかった校庭の西側はすっかり家込みとなり、若宮小学校が建ち、白鷺の遊んでいた田圃は埋められて団地になるなど、当時の富士の姿などは昔語りになってしまいそうな世の移り変りである。然し毎年入れ替る生徒達が高らかに歌い続けているこの校歌から「何故鷺宮高校なのか」へ思いを馳せてくれるならば、校歌とは何とすばらしいものだろうか。
校旗について 府立高等家政女学校時代の校旗は、校歌と同じ頃当時の清永福市校長によって作製されたむので、校章の紫草を中心に金糸、銀糸をたっぷり使って刺繍したものであった。
現在の校旗も前例に従って、同じく校章を図柄にして紫地に金・銀の糸で刺繍をほどこした美事なむので、昭和30年(1955年)10月9日に制定されている。その後幾年月を経た今日まで学校の象徴として、入学式、卒業式は言うまでもなく、色々な記念式典の際には講堂の演壇上に、あざやかな色彩をとどめて参列者の注目をひく存在となっている。校歌・校旗・校章のいずれもが母校の象徴として数万人の卒業生の心中に永く生き続ける事であろう。
校章について 府立高等家政女学校時代の校章は、校歌の章で述べだように、本校の初期はすべて古今集の「一本の紫草」から発生していると言っても過言ではなく、校章の中心に図案化された紫草を置き、外廓を八咫(やた)の鏡で囲み、その間に月の輪を配したいかにも上品で優雅な女性にふさわしい校章で、校歌の要旨があてはまるような美事なむのであった。その後校名の変更に伴い、鷺宮高等女学校となった為に写真のように鷺の字を金文字で中心に置き、まわりは女子の字を図案化した銀台の至極単純なものとなった。
やがて男女共学割となり、鷺宮高等学校と改名するに当り、男子の帽章との関係もあって、結局生徒の応募作品等も参考にして、当時の美術担当の大沢源先生が数回にわたって試作され、現在の校章が誕生した次第である。学帽が廃れてしまった現在、当時の帽章の迫力は無く、僅かに左の胸に小さな存在として残っているものの、この制定についてのいきさつは大変なもので、数回の職員会議・生徒会にかけられ、甲論乙駁(こうろんおつばく)その凄まじかった当時を想うと懐かしい気がする。当時の想い出を大沢源先生はこんな風に語られていた。
『戦争中絵など描けなかったから、私は毎日校庭に出て、長倉校長と一緒に豚小屋を作ったり、炭焼かまどや金庫用防空壕を作っていると何となく気持が落着かなくなるので、毎日欠かさず校内神社の森(現ゲーテの森)の中を歩いて欅の葉、楢の葉の香りを嗅いでまわったが、森の木の葉の魅力にひかれている間だけは戦時中の苦しさを忘れたものだった。だから新しい高校の帽章の図案をと言われた時、私は一も二もなく森の木の葉を思い浮かべ、これを図案化して前途ある青年達の頭に飾り祝福してやりたいと思った』と泌々(ひつひつ)話された。
校章の由来について、大沢源先生はまた次のようにも話された。
『焼野原になった校舎の一隅に、こんもりとした森があって、そこにはこの学校特有の校内神社がたまたま焼け残っていた。森の樹木も武蔵野の面影をとどめていて、当時の荒れた環境の中で、生徒達にも先生方にも唯一の心の安らぎの場所として親しまれ、椅子に腰をおろしては四季の移り変りを楽しんで眺めたものだった。
森の樹木は、大木の杉・檜の針葉樹や、欅・樫・櫟・楢などの濶葉樹といういわゆる雑木の森たった。
私は、校章(特に男子の帽章を念頭に置いて)を考案する時、まず「クヌギ」の木の葉の特徴ある葉形ど葉脈とを、何とかして△形の校章に取り入れたいと思った。そこで中央の鷺の字は浮き出し文字とし、葉の一枚一枚には肉を付けて立体感を現わした。また校章の台は銀地とし、金色よりも温和な感じを持たせるようにした。
でき上った時、私は、「平凡だけれど学校の象徴としては昔の女学校からの一連のおだやかさが見られるよい校章だ」と思った。
最近は帽子を常用する生徒が殆ど見られなくなったが、西武線の電車内で、ふっと鷺宮高校の校章に出逢うと、年甲斐もなくあの頃を想い出し、胸のときめくのを感じ懐かしさで一杯になってしまう』と。
こうしたお話を伺うにつけ、校章のデザイン一つにも色々な心遣いがされていた由来を、現在の生徒達にもわかって貰い、もっと校章を大切にするきっかけにしてほしいと思う。
70周年記念誌より
※先生のご意思には反するが、ヨコ組みにしたこと、難しい漢字が多かったことなどから、年次は算用数字と西暦を加え、漢字にはルビを振らせていただいた。また校歌は鈴木先生の筆のものがなく、新たに書いた。